トップページ原爆の絵川に浮かぶ死体とそれを引き上げている兵隊
識別コード | GE40-36 |
---|---|
絵の内容 | 川に浮かぶ死体とそれを引き上げている兵隊 |
作者名(カナ) | 宮城 タツヨ(ミヤギ タツヨ) |
作者名(英語) | Tatsuyo Miyagi |
当時の年齢 | 25歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集) |
情景日時 | 1945/8/9 |
情景場所 | 猿猴橋付近 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 1,820m |
ブロック別 | 牛田・広島駅周辺地区 |
作者による説明 | **絵の中 八月九日エンコウ橋附近で 暑いため川にとび込んで魚が浮上って死んでいるような人たちを引き上げている兵隊たち **裏 宮城タツヨ 54才 **別紙 当時、私は大阪へ嫁いでいましたが、空襲の恐れがあるというので、実家の瀬野へ帰り、小学校の事務をしていました。あの日もいつものように家を出て、ちょうど学校に着いた途端に「ドーン」とものすごい音がして、広島の方を見ると、山際から大きなキノコ雲が上がっていました。午後になると、被爆者の方々が列車で運ばれ、私の勤めていた学校にもたくさん収容されました。どの人も手の付けようのないほどの火傷をし、服はボロボロ。特にモンペなどは腰の紐だけが残っているという有様でした。 三日後、近所の人が行方不明になったというので、役場の人と探しに行きましたが、広島駅に降りた私は、わが目を疑いました。建物が皆倒され、己斐の方まで見渡せるのです。私たちは市内の中心部に向かって歩き始めましたが、途中、川を覗けば熱さのあまり飛び込んだ人の死体がいっぱいで、まるで魚が浮き上がっているようでした。 紙屋町付近まで来ると、電柱を2本倒し、その上に死体を並べ、まるで魚を焼くように死体を焼いていました。この絵は、その時のようすを描いたものです。それはもう地獄絵そのものでした。 被爆50周年を迎え、あらためて思うのは、戦争はしてはならない、絶対許せないということです。その結果残されたものは、ただ多くの悲しみだけなのですから。 |
サイズ(cm) | 37.5×54 |
展示の説明文 |