識別コード | GE39-41 |
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絵の内容 | 牛田の自分の家へ帰るところ |
作者名(カナ) | 犬丸 フミ(イヌマル フミ) |
作者名(英語) | Fumi Inumaru |
当時の年齢 | 33歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集) |
情景日時 | 1945/8/6(時刻)直後 |
情景場所 | 饒津神社 |
情景場所旧町名 | 二葉の里 |
情景場所現町名 | 二葉の里 |
爆心地からの距離 | 1,800m |
ブロック別 | 牛田・広島駅周辺地区 |
作者による説明 | **絵の中 No.1 至、昔の早稲田区(今の女学院大学) この堤防の桜は三十年後の今もあの時の地獄のさまを秘めて、春になれば美しく咲いていることでしょう。 私が走って、桜の植っている堤防を通過する時、もう二、三軒は火の手が上って、すごく燃えていた。 この方に広銀の社宅があったと思う 二重堤防 小川 二重堤防 原爆直後の絵。 勤務先に向う途中ピカドンに大須賀町でやられ、駅(広島駅)の方向は、電線が切断され、すごい火をふいていたので駅の方に向って行くことは死ぬことヽ牛田の早稲田区の我が家に戻ることを、とっさに思い後戻りする途中、既に饒津神社の森の青い立樹はパチゝと音を立てヽ燃えていたので防空頭巾をかぶり燃える炎の下をくヾるようにして、牛田をめざして走って帰る私。 至 神田橋 太田川 私 饒津神社の森 裸体の小父さんが、体に血を流しながら、どうすればと泣いていたので、牛田の山へ逃げなさいと呼びつヽ私は我が家をさして走って帰る。 **裏 必死の思いで我が家に帰ってみると、母も弟嫁も五才の娘も傷もなく、無事でしたが、家は、ガラス戸もメチゃゝ畳は舞い上り、屋根の瓦もふっとんで原爆(その時は、何がなんだかわからないまヽ)の威力に茫然とつヽ立つ私でした。水もとまり、電灯もなく、体は、汗とほこりでねたゝ、しかし爆風で腕ともヽに少々の傷ですんだことが不思議。通勤の途中だったと思う弟妹もどうにか、その日の夕刻までに命拾いして帰る。 妹は頭や顔に大変な怪我をしていたが、三十年後の今もどうにか生きています。あの地獄さながらの悲惨さを人々は忘れようとしていることが残念でなりません。 大丸フミ |
サイズ(cm) | 38×27 |
展示の説明文 |