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トップページ原爆の絵鼻、口、耳から出血し、苦しみぬいて死んだ息子。

原爆の絵

識別コード GE31-40
絵の内容 鼻、口、耳から出血し、苦しみぬいて死んだ息子。
作者名(カナ) 秋山 アサコ(アキヤマ アサコ)
作者名(英語) Asako Akiyama
当時の年齢 43歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時 1945/8/30
情景場所 安佐郡祇園町長束
情景場所旧町名 安佐郡祇園町長束
情景場所現町名 安佐南区長束
爆心地からの距離 3,800m
ブロック別 三篠・祇園地区
作者による説明 **絵の中
昭和二十年八月六日
長男、薫は寺町で被爆、相生橋を泳いで渡り、研屋町の自宅跡を探す。翌七日私と再会、市役所え行き、罹災証明を貰らい、おむすび一ケ頂いた。夜は廊下の硝子の粉なみしの上に、ムシロを敷き、職員や、雑魚場の義勇隊の傷ついた人びとと夜を明かす。暗闇の中を二度手さぐりで、空缶に入れてあった水を持参しました。薫は前日の六日に統計課長の矢吹さんに私の元気である事を聞いたので配給■など手伝ったと云いました。

八月十五日敗戦を聞き非常に残念がり、「叔母から、日本刀を借りてくれ 腹を切って死ぬる」と云うのを押し止める。この頃より、紫斑、脱毛、歯茎より出血があり、長女の葬式後の二十八日、祇園の歯科に連れて行く。刻々と死期の迫っていた長男を診察後「もう少し早く来れば、なんとかなった筈。三,四日が危ない」と告げられ気も狂わん計り。帰途、顔面蒼白の長男は、肩をがっくり落し、わら草履姿でトボトボ歩く姿は、痛ましくてとても見られない。私は心を鬼にして「薫ちゃん、私も、何時どうなるかも知れないが、万一の時には仏さんに、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えて貰いなさいと」やっと涙ながらに云いました。私は胸が張り裂けんばかりでした。
三十日の朝、南瓜のご飯が美味と云っていたのに、午後、急変、姿が見えぬと思ったら便所の中で、バタバタ、ケイレンの様に、もだえ苦しんでおり、私は驚き、どうしたのかと問いましたら余り苦しく死なうと、コヨリを二度鼻に入れたと、済まないと侘びました。医者の診察は、一度も得られず、午后一時二十分、苦しみに苦しみを重ね、遂に黄泉の客となりました。長男の顔は、死後ゴム風船の様に大きく膨れ上り、鼻、口、耳から出血し止まらなかった。火葬の翌朝、片方の足首が無慚にも焼残っていたが、骨壷に納められず、生焼けの足首に心を残し下山す。 合掌

唯、一人残った四女、百合子(当時十五才)学徒動員で広島貯金局福屋分室に勤務中、福屋百貨店、七階で被爆。頭、左腕に重傷。

長男の片方の生焼けの足
サイズ(cm) 38×54
展示の説明文

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