識別コード | GE28-29 |
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絵の内容 | 紙屋町付近で、死体を火葬にする |
作者名(カナ) | 宮城 タツヨ(ミヤギ タツヨ) |
作者名(英語) | Tatsuyo Miyagi |
当時の年齢 | 25歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集) |
情景日時 | 1945/8/9 |
情景場所 | 紙屋町付近 |
情景場所旧町名 | 紙屋町 |
情景場所現町名 | 紙屋町 |
爆心地からの距離 | 200m |
ブロック別 | 紙屋町・本通地区 |
作者による説明 | **絵の中 八月九日紙屋町附近で死体の火葬をしている所 又暑いため水槽用水の中に入って死んでいる人 用水 **裏 宮城タツヨ 54才 **別紙 当時、私は大阪へ嫁いでいましたが、空襲の恐れがあるというので、実家の瀬野へ帰り、小学校の事務をしていました。あの日もいつものように家を出て、ちょうど学校に着いた途端に「ドーン」とものすごい音がして、広島の方を見ると、山際から大きなキノコ雲が上がっていました。午後になると、被爆者の方々が列車で運ばれ、私の勤めていた学校にもたくさん収容されました。どの人も手の付けようのないほどの火傷をし、服はボロボロ。特にモンペなどは腰の紐だけが残っているという有様でした。 三日後、近所の人が行方不明になったというので、役場の人と探しに行きましたが、広島駅に降りた私は、わが目を疑いました。建物が皆倒され、己斐の方まで見渡せるのです。私たちは市内の中心部に向かって歩き始めましたが、途中、川を覗けば熱さのあまり飛び込んだ人の死体がいっぱいで、まるで魚が浮き上がっているようでした。 紙屋町付近まで来ると、電柱を2本倒し、その上に死体を並べ、まるで魚を焼くように死体を焼いていました。この絵は、その時のようすを描いたものです。それはもう地獄絵そのものでした。 被爆50周年を迎え、あらためて思うのは、戦争はしてはならない、絶対許せないということです。その結果残されたものは、ただ多くの悲しみだけなのですから。 |
サイズ(cm) | 38×54 |
展示の説明文 |