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トップページ原爆の絵救護所となった縮景園に運ばれた負傷者や死体

原爆の絵

識別コード GE25-24
絵の内容 救護所となった縮景園に運ばれた負傷者や死体
作者名(カナ) 福井 巌(フクイ イワオ)
作者名(英語) Iwao Fukui
当時の年齢 29歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時 1945/8/6(時刻)9:15
情景場所 縮景園
情景場所旧町名 上流川町
情景場所現町名 幟町
爆心地からの距離 1,300m
ブロック別 銀山・幟地区
作者による説明 **絵の中 
哀れな少年
**裏
曉四〇三九部隊(病院船衛生方九班)
陸軍衛生兵長 福井巖
当時広島市似島にて待機中でした
原爆投下約一時間後私達は一番乗救護班として駐屯地の似島より市内の浅野泉邸跡に急行してそこで救急の治療を約一週間續けました 其の後は赤十字治療班に申送り本隊に歸り旬日を出づして復員歸郷致しました
名前の判明した死人や重傷者の氏名を貼り出して後日探しに来られるだらう近親者の一助にもと貼り出しました
トラックが何台もゝも負傷者や死人を運んで来ました
負傷者は私達の前へ、死人は小山の様に積み上げられました
夜 死者は其の辺の倒れた木や家屋の板切れを積み上げた上に並べられて火をつけられた
静かになった夜 人を焼く煙が青く赤く立ちのぼっていました
一番哀れに思ひましたこと
死人の山のそばで少年が一人目をやられて何も見えず立つこと歩くことも出来ないらしい
うつむきかげんに座りウワ言を繰り返していました
大きい聲で「オイシイ ウドンはイカガ ゝ ゝ」と、明日夜が明ければ最早死んでいるだらう
而し何もしてやれませんでした
二枚組の(一)
氏名 福井巖
サイズ(cm) 27.5×38
展示の説明文 1945(昭和20)年8月6日午前9時15分
縮景園(爆心地から1,300m) 絵/福井巌氏

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