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トップページ原爆の絵弟をさがしに行ったが見つからず弟の友達が死んでいた

原爆の絵

識別コード GE24-17
絵の内容 弟をさがしに行ったが見つからず弟の友達が死んでいた
作者名(カナ) 石川 文恵(イシカワ フミエ)
作者名(英語) ISHIKAWA Fumie
当時の年齢 16歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時 1945/8/7(時刻)昼頃
情景場所 己斐国民学校校舎入口
情景場所旧町名 己斐町
情景場所現町名 己斐上二丁目
爆心地からの距離 3,050m
ブロック別 己斐・草津地区
作者による説明 **絵の中
昭和20年8月7日広島市己斐小学校、校舎入口附近。
中学2年、学徒動員土橋方面家屋疎開で被爆の弟を探しに叔父と2人で出た時、弟に似様な背恰好の人達を1人1人のぞき込む様に探し廻る。入口の所で弟の仲好しの1人伴君が死んで居るのが見つかる。しかし弟は居なかった。
**裏
広島市己斐小学校収容所
石川文恵 47才
被爆時住所 安佐郡(現在広島市)祇園町
旧姓 幸本文恵
弟達は中広町の兵器工場に学徒動員されて居た。6日は更にそこから家屋疎開の作業で土橋方面に動員された。三瀧の山中には工場の避難所がある。病気で家屋疎開に行かず、工場に居て生き残った級友の1人が弟の消息を知らせて来て呉れる。原爆投下より4日程後であった。すぐ父と叔父が板切れで棺を手作りし弟を連れに行く。暑い時なので、死体がどんなになってるか心配したけれど、行って見ると、布團に包まれ涼しい山の土中深く埋められて居り、腐乱して居なかった。草花さえ供えてあったとか。川を泳ぎ、火の中をくぐり乍ら逃げた体は痛々しく傷ついて居たけれど、帽子の下の額の生えぎわや、母の手作りのパンツにはっきり弟である事が判る。
弟は友人の伴君達4人と飛行機を見て居てやられたとの事。結局己斐まで逃げて伴君が倒れ三瀧山まで来て弟が力つきたのだ。他の2人は祇園町の家迄帰る事は出来たがやはり亡くなる。
合掌。
**実態調査
校舎の裏側からの入り口の所、この辺は中学生らしき少年のやけどの死体や未だ半生の人もこヽで弟と仲良しの友「伴君」が死んで居たのを見つける。写真の段の右側の少年。しかしこヽでどうしてあげる事も出来ず、帰って知らせてあげた
サイズ(cm) 27×34.5
展示の説明文 弟に似たような背格好の人たちを、1人1人のぞき込むように捜し回る。入口で弟の仲良しの1人、伴君が死んでいるのが見つかる。しかし、弟は居なかった。

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