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トップページ原爆の絵小さい風呂場はそのままで武道場は南に傾き崩れていた

原爆の絵

識別コード GE22-31
絵の内容 小さい風呂場はそのままで武道場は南に傾き崩れていた
作者名(カナ) 永尾 勝實(ナガオ カツミ)
作者名(英語) Katsumi Nagao
当時の年齢 42歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時 1945/8/8(時刻)11:00頃
情景場所 市工裏の工専の風呂場、武道場付近
情景場所旧町名 千田町三丁目
情景場所現町名 千田町三丁目
爆心地からの距離 2,060m
ブロック別 国泰寺・千田地区
作者による説明 **絵の中 
昭和20年8月8日(水)晴
工専の武道場
工専の風呂場

焚火の跡
千田町 市工裏の風呂場と武道場

**裏
日時 昭和20年8月8日(水) 晴 前11時頃

場所 千田町2丁目 広島市立2工裏工専の風呂場、武道場付近

説明 学校長訪問後巡視した。小さい風呂場はそのままで武道場は南に傾きこの通りに崩れていた。
9月以降1年7ヵ月この風呂場に起居し武道場は焚物であった。又一時は職員室兼集会所でもあった。

由来 私は昭和19年9月市工の職員として赴任したが原爆投下後はこの風呂場に起居し22年4月自宅に帰った。自宅は佐伯郡友和村であるため土帰月来であった。
初めは己斐に下宿したが原爆からは宮田教諭(尾道の人)化学の先生と同居し一日米一合副食物はなしと言ってよい。買うことはできないので芋や南瓜を植え(東側の畑と校舎間の空地)その畠の作物、さつま芋は葉、茎、つる最後に根(いも)などを1日1合の米に水を加えては焚く(唯 水だけはあったし焚物は校舎の崩れたのを校長先生の許可で木はある)最も10幾棟の校舎の仕末ができないので近所の家へ焚木として利用して貰うことになったので寒い時は焚いて暖まった。

感想 荒涼とし原爆の燒野原の1年7ヵ月苦しかったがよい体験であった。22年4月佐伯郡玖島中学校に帰り自宅より通勤する身となった。当時田舎は農作物は勿論都会人と交換する 魚肉類、酒、煙草など農家では米成金さえできた。
被爆後30年72才になった私はしみじみと振り返って平和都市広島の実現に日本国民の眞の平和を祈ってペンをおきます。

反省 以上私のつまらぬ経験の大要を申し述べましたが、それ以上の何倍かの苦しい体験をした人がありましょう、併しこの意義ある計画は賛成しますが更に一歩を進めて戦争を罪悪視する上に原爆の体験を日本の世直しにしてもらいたいのです。私事 私は昨年の4・5月の約一ヵ月オランダと西独、英、仏の三国に家内同道で参りました。第二次大戦で本国の約60倍の土地を失った小国オランダが(オランダ人が)如何に穏やかな偉大な国であるかを見て驚きました(私の三男の赴任地です)昨年の5月1日 日本経済新聞が6面にわたり偉大なる小国として掲載しましたが知っている人は余りないようです。徒らに大国を取り上げたり犯罪記事計り書き上げるより小国でも小さなよいことでも取り上げて欲しい(これは新聞社に言うことでしょうが)犯罪は模倣なり誰かが申しました。


NHKの方々に御願いします。現在の日本を動かしているのはマスコミの力です、世直しのため更に一歩を進めてこうした計画を御願いします。私は絵も下手でより以上字が書けなくなって養生中です。今花木の手入れで多忙なのですが病院帰りで休んで居ますので絵を描きました。
大変失礼なことを書きそえました。
サイズ(cm) 25.5×35
展示の説明文

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