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トップページ原爆の絵説明文

原爆の絵

識別コード GE19-23
絵の内容 説明文
作者名(カナ) 神田 イツコ(カンダ イツコ)
作者名(英語) Itsuko Kanda
当時の年齢 42歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時
情景場所
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵の中
P-8.
②-一の続き・・・・被爆者の死の寸前(八月十五、六、七日)
主人はそれ以後、水ものどを通らず、『口ぐせのように、リンゴが食べたい、砂糖湯が欲しい』といっていたので、リンゴや、砂糖はどうしようもないが、水あめがやっと手には入ったので箸の先につけて、口元迄、持って行ったがかぶりをふって、口にはしなかった。水もタラリと口から流れ出る始末、十七日の夕刻、急に熱が出る。保健婦さんが、「もうおしまいですよ」と。死の宣告。午後八時十五分安らかに眠るが如く、息を引き取った。当年五十五才、家族、親せきに見守られ乍ら、こうして逝ける人は幸です。葬儀もひそやか乍ら、営んだ。之もまた幸な人だと思います。仏のお加護を思いつゝ合掌。
追想・・・・・現在、ベトナム地方の戦爭で避難し逃げまどう惨たらしさを、テレビニュースで見るがその比ではない。一瞬にして、火となり灰となった家屋や、人間、押しつぶされた家材の下敷となって手足をとられ、はい出すこともならず助けを求めつゝ、生き乍ら火の海の中で命を絶った人の数は未だに判明しない。この惨状は絵にも筆にも書き尽せない。原爆の恐ろしさを知らぬ人々には、何と説明しても理解しては貰えないだろう。原爆映画を見たが、あんななまやさしいものでは決してありません。地獄絵図、そのものです。
⑥被爆者が夛く見て貰いに行く日赤原爆病院に就いて先日、私は初めて、診察を受けに行った。変なことを云うようですが、待合室のトイレに入って、泣いてしまいました。こゝの水洗式トイレに、備え付けのペーパーがないのです。現今、水洗便所に、ペーパーが備えつけてないところがどこにあるでしょう
田舎の小さい駅にだって、水洗式のものならば必ず、トイレットペーパーはついている。それなのに、こゝにはない。自分がペーパーの持ち合せがなくて困って泣いたのとは違う。原爆病院は年間、千万円に近い赤字経営だと聞く。赤字の原因には、色々とあるだろう。而し、こゝまで貧迫しているのか、と、先づ泣いた。それから、原爆が広島、長崎に落とされ、それがキッカケとなって、敗戦ながらも、日本に平和が戻って来た。その犠牲となった被爆者、あの時即死した人、キズついた人、ようやく、生き永らへて今日を迎えた被爆者。それは第一戦で活躍された勇士と変らぬ働きではあるまいか。云えば平和を導いた、勇士ではないかと思う。その人々を遇するにこれだ!!私の心は怒りに燃えた。涙がとめどもなく流れる。原爆病院の管理、経営は国家ですべきものではあるまいか、と、私は思う。年々の赤字を国の首脳部の方々は、何と思って、見ていられるのか。設備も他の病院に比べて、あまり良いものとは見られず、一日も早く改善さるべきところは、改めて、欲しいものだと思います。
サイズ(cm) 51×36.5
展示の説明文

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