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トップページ原爆の絵被爆1ヵ月後ハエのたかった死体があった。療養のため帰った山県のようす

原爆の絵

識別コード GE19-22
絵の内容 被爆1ヵ月後ハエのたかった死体があった。療養のため帰った山県のようす
作者名(カナ) 神田 イツコ(カンダ イツコ)
作者名(英語) Itsuko Kanda
当時の年齢 42歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時 1945/9/初旬
情景場所 横川駅付近、山県
情景場所旧町名 横川町三丁目
情景場所現町名 横川町三丁目
爆心地からの距離 1,750m
ブロック別 三篠・祇園地区
作者による説明 **絵の中
P-7.
⑤六日から一ヶ月も過ぎた頃の惨状
横川駅の近くにコンクリ建ての大きな農協倉庫があった。登校の行来にその裏を通った。コンクリートの壁が破れて、落ちた、ところに、一人男女の見分けもつかぬ人間がうづくまって、死んでいた。着物は破れて、死体は悪臭を放ちはえが一杯たかっているあまりの事に、片手で鼻をつまみ乍ら、心で両手を合わせて小走りに通り過ぎた。いつ頃取片づけられたものか、知らない。あれからもう一ヶ月も過ぎていたのに。どこのどなたか。合掌、念仏、
倉庫のコンクリ壁の破片に押しつぶされた人間
②-一の続き、話が前後しますが、放射能が原爆が、どんなに人体を毒したか、その一例として再び主人のその後の様子をのべさせて、頂きます。分宿で三日間お世話になった後、家へ帰ろう、(山県の生家のこと)、と云い出した主人の顔色は、悪かった。可部で一泊、五日目のこと、口から鼻から、黄色いどす黒いものを吐き出した。何か食べると、又吐いた。土色の顔をしていた。
②-一の続き、…吾々家族は幸、山県行きのトラックの便を得て、十日の夕方早く、目的地に着いた。(主人の生家は小髙い丘の上にあった。眞宗のお寺で、現主は15代目に当る。主人はここで総領息子として生まれたが、故あって僧籍にはつかなかった。とにかくお寺で生まれここで育った。)お寺にはまだ広島市の小学児童が集団疎開で来ていて、まだ夛数いた。その中に、ニ、三の疫痢患者がいて、一般の人の出入りは、出来なかった。困った。『田舎に帰って、いい空気を吸ひ、おいしい米のおまんま、食べれば、元気になるよ』と帰ってハ来たものの…幸、すぐ下手に一軒の農家が畠の中に、ぽつんと建っていて、親せきの者が住んでいて、奥の一間を心よく、貸して下さった。一まづ落着いた。疲れが出たのか主人は毎日床にいた。が 八月十五日のお昼の重大ニュースを聞いた。天皇陛下の御詔勅を起き上って 正座のまま、手を合わせて、聞いた。『これでいい、日本も明治の昔に戻ってみんな田畑を作り漁などして、平和に暮らせばそれでいいのだ』『よかったよかった、』と喜こんだ。それが最后の言葉であった。四、五日前から、血便、血尿が出た(放射能に侵された、体内の粘膜、内臓が溶けて、出る、のだ)赤痢だろう!福屋はこうした患者が一杯で隔離病舎に、なっているそうだ!こんなうわさが流れて、この田舎まで伝わって来た。私達は、夏の暑い日中でも、窓も障子も開けられず一日〆切っていた。

くりは 隔離病室 
サイズ(cm) 51×36.5
展示の説明文

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