トップページ原爆の絵市内各地のようす(住吉橋で死んだ母と子など)
識別コード | GE16-28 |
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絵の内容 | 市内各地のようす(住吉橋で死んだ母と子など) |
作者名(カナ) | 明井 吉郎(ミョウイ キチロウ) |
作者名(英語) | Kichiro Myoi |
当時の年齢 | 46歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集) |
情景日時 | 1945/8/6(時刻)17:00頃 |
情景場所 | 御幸橋 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 2,270m |
ブロック別 | 国泰寺・千田地区 |
作者による説明 | **絵の中 最新廣島市街地図 忘れ莫れ 昭和20.8.6 午前7.15 X爆弾投下 八月七日 縁故先白骨ヒロウ 得意先白骨化 白骨の山 ピカドン落下中心地 避難不能 天井落下 将に生き地獄 兵隊さん おじさん水頂戴ゝ 窓ガラス全壊 黒い雨が降る 右 正視出来ない 住吉橋上の悲惨な實図 左 元県庁附近の大木が吹飛んだ 大穴の中に居る五―六人 泣き叫ぶ学徒 明井吉郎謹書 昭和二十年八月六日午後五時頃御幸橋より見た現況 直感 広島の非戦闘員を斯く迄無差別爆撃した怨み骨髄に徹した。何れ見よ『ドル』を稼いで復讐してやるぞ。私は娘(学徒)の消息を探索する為めに右の時間に入市したものですがおそらく一番乗りしたもの又最後迄踏み止まった者であろう。“当日は非常線を張って入市禁止”御幸橋より鷹の橋を見通して南側は全壊ではあるが焼け残る。然し北側は見渡す限り全くの焦土化であった。明治橋に出る迄でも棟木や梁の下敷きとなって死んで居る人の多い事。明治橋の橋上には死体の山。川には『イカダ』繋いだ如しで全く正視出来ない。住吉橋の上にも死体の山。 就中 上の図の様に乳児を抱いた母親の眼球は飛び出て居た!!“嗚呼無情!!”舟入町の市女校に入った時は既に七時頃であったが母校は半壊の焼尽。残って七―八人の先生は只ボーゼン。水泳選手は楽々園へ移動した事で先ず安堵。従業員等県庁方面に趣いて居る事を慮り明治橋より川岸をつたい二百米位の地点で「兵隊さん水を頂戴」と泣きさけぶ声に『ガンギ』を上り見れば学徒らしい上図の如し。五―六人が大木へ吹飛んだ約二米平方もある穴で「おじさん水をゝゝ」の連続!!早速水筒を取出せば気ちがいの如く河に降りて死体を取分けて水を補充。県会ギ事堂の門柱が焼け残って居たので初めて県庁跡である事が判った。呼べどさけべど健全な人は居ない。一人をオンブ一人は抱いて四人を誘導した。汐の引いた川岸つたいに橋迄タドリ着くのが精一杯。住所、氏名を書控えて鷹の橋で涙の別れが午前二時頃であった。 |
サイズ(cm) | 88×56.5 |
展示の説明文 |