識別コード | GE16-02-2 |
---|---|
絵の内容 | 被爆直後からその後の避難のようす |
作者名(カナ) | 匿名 |
作者名(英語) | Anonymous |
当時の年齢 | 42歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集) |
情景日時 | 1945/8/6(時刻)8:00過ぎ~1ヵ月後 |
情景場所 | 三篠国民学校、三滝橋付近 |
情景場所旧町名 | 三篠本町一丁目 |
情景場所現町名 | 三篠町一丁目 |
爆心地からの距離 | 1,990m |
ブロック別 | 三篠・祇園地区 |
作者による説明 | **絵の中 其の(二) 八月六日8時過 直前墨絵 直後の絵(朱) ◎夜来の空襲警報も解除。 ほっと一息と、机の前に腰を下ろしたとたんでした (窓から一米離れた位置) ピカット異様な光、青かった、暑かった。痛かった 頭から顔から背中から砂の様にくだけたガラスの破片が無数に飛び散り襲いかかった。 夢中で立ち上り、二、三歩、入口に向って歩くと、後からすごい力で押されて ト、トットと入口の方向に押し倒された。・・・それから、何秒たったか何分経たか、何も分らなかった。気がついて見ると、今自分は、どこに居るのかと思った。それ程辺りの様子は変っていた。天井のシャンデリヤは姿を消し、書棚は倒れて本はそこら中散らばり、足の蹈み場もない。 廊下に出た。下駄箱も倒れて通れない 裏に出た。廊下で虫の息の事務職員に会う 声を掛けたが返事がない。兵隊さんに後を頼んで避難する。目的地は河原づたいに山へ。 三滝橋から山へ→途中逃けまどい泣いている子供ら十数人、連れて、山へ、木蔭へと。避難する。 直後の教頭先生 外からは入って来られ姿。 私はここでお会いした。(大玄関の入口で) 眼鏡をとられた教頭さん 服は破れ、血のにじんだ皮ふのはがれた両手をブラリと下げて、顔はどす黒く燒けている。 天井のシャンデリヤ 書棚 直後の自分 入口 鋏 べんとう 私はこゝに居た 打伏せに倒れ 虫の息の事務職員(その後死亡) **別紙(絵に貼付) その一(2) 直後の自分についてー あまり申したくはないけど聞いて頂き度ございます。 ・床にたゝきつけられ倒れた私は、夢からさめると、なぜか両手で顔をなでたざらっとした感じ、両手の掌はまっ赤になるガラスの破片が顔中無数につきささっている。右手、右足にも大きく血が出ている。 目に沁みる血潮を防ぐため手拭で、八巻をした。河原に下りて血止めに、よもぎの葉をもんでつけた。右手の甲のきずは深くて向う一ヶ月の間、顔が洗えず、風呂へもは入れなかった。 右足は付根から大きくはれ上り歩くのもつらかったが、自分のことにはかまっていられなかった。 主人の治療、子供の看護などあり、主人は十七日になくなった。右手のきずはくさって、神経の糸が三糎ばかり出てきたので引張ると切れてしまった。それから指三本は不感覚冬にはしびれ、鉋丁を握っても休み休みにものを切る。ペンもつゞけては持てない、向う三年間は苦しかった。髪の毛をくしでとく度にガラスのかけらが散らばった。キズがいえて、つきささっていたのが出てくるのだ 衣服を着替える場合も同様だった 以上向う一ヶ月の間のこと。 ・今一つ何としても忘れないことは床に倒れた時 非常袋から飛び出して、投げ出された鋏と辨当の亊 手を延ばせばすぐそこに在る、のに取ることが出来ず逃げ出さねば、ならなかった。あとで残念に思ひつゞけた。 なぜ手が延ばせなかっだのたらうか? その時の放心状態が涙ぐましい。 あの鋏はハワイの友から送って来たもので記念の品だったのだ。よく切れて、ピカゝけっしてさびない品だったので。辨当箱にも楽しい思出があるのです。 ・主人は十日市(爆心より五、百米)の当りで 電車の中に居た(満員の通勤車)ピカリはひどいショートかと思ったという。急停車で皆倒れた。気がついて見ると、唯一人車に残っていた、と。折重って倒れたその下になったので、外見何一つキズもないのに、十七日夕、亡くなった。死の三日前から、血便血尿、放射能で内臓がやられていたのだ。 |
サイズ(cm) | 55×32.5 |
展示の説明文 |