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トップページ原爆の絵焼け残った我家で怪我人の応急手当をし、むすびをもたせる

原爆の絵

識別コード GE09-13
絵の内容 焼け残った我家で怪我人の応急手当をし、むすびをもたせる
作者名(カナ) 道岡 クニ子(ミチオカ  クニコ)
作者名(英語) Kuniko Michioka
当時の年齢 50歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時 1945/8/6~8/7(時刻)8/6 8:30~8/7夕刻位
情景場所 白島東中町
情景場所旧町名 白島東中町
情景場所現町名 白島中町
爆心地からの距離 1,800m
ブロック別 基町・白島地区
作者による説明 **絵の中(〔 〕は実態調査による)
爆風で杉垣の杉は大根を切ったように切れていた
(八月六日原爆の落ちた日)
白島東中町
道岡詳夫邸
電柱
我家の垣根に14,5才の女の子が原爆の落ちた間もなく死んだらしい
翌朝一枚のコモがかけてあった
一物の無い焼野原でせめてもの親心ならんか「むくろ」となりし此の娘の口に水をぬってあげて手を合わせた
可愛らしいゝ娘である
硝子の破片頭にさヽり白い非常袋に血の雨、しかし少しも痛くはない
〔絵の中の文字は〕あの日の私(道岡クニ子)
〔左下の絵の中の文字は〕非常袋
柱に硝子の破片手裏剣の如く突きさヽっている〔爆風で破損〕
焼け残った我家へ牛田方面へ逃げる途中の怪我人が次ぎゝと集り、カーテンを裂きワセリンをぬって応急手当をする。ワセリンも使い果たしてバターをぬった ビンツケも
我家は避難所の如し此時我家には米3、4升あり俵むすびの小さいもの一つづヽ配る。ゆでだこの如くなりし手にやっと持たせる。元気で走り廻る子供に「イモ」飴を箸につけてなめさせたがこれは失敗でどこもゝネチャゝになる。硝子の破片もつきハラゝゝ〔8月6日から7日間位、我が家には常時20人から30人が避難していた〕
怪我のところが血がかたまり引きつり悲鳴を上げる楠園夫人の服を傷のあと通りに切り花の如く諸所に残る でもらくになりましたと小さい声で、此の人は二三日後軍隊よりかけつけた夫に大八車でひかれて郡部の方へ行かれた〔梅園夫人は近隣の知人〕
町はずれの我家の方へさ迷ひ来る人の群れ
死児をかヽえて、腸らしいものがぶらさがっている
あらめのような服がわづかに身についている
道岡さん助けて!!しかし誰とも判明せぬ
子供らの学校の友達のお母さんであらうか
カボチャ
葉はゆで菜のようになっているがカボチャはゴロゝ畑にある 夕方になり「カハラ」を組んでクドらしきものヽ上にへしゃげた鍋でカボチャを煮た〔当時我が家では裏庭の一部を自給菜園にしていた、他に食物がない〕
その日の夕方焼けたヾれた一冊の源氏物語がなげ込まれていたせめてこの一冊をと抱えて避難途中力尽きてか、一冊の源氏物語りを残せし人今やいづこ
源氏物語
原爆投下の日の我家の内外 広島市白島東中町(当時)
道岡クニ子
現在昭和50年 80才
サイズ(cm) 38×54
展示の説明文

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