トップページ原爆の絵似の島検疫所に収容された被災者の救護にあたり、死者を焼く
識別コード | GE04-34 |
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絵の内容 | 似の島検疫所に収容された被災者の救護にあたり、死者を焼く |
作者名(カナ) | 後藤 利文(ゴトウ トシフミ) |
作者名(英語) | Toshifumi Goto |
当時の年齢 | 19歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集) |
情景日時 | 1945/8/7(時刻)14:00頃 |
情景場所 | 似島検疫所 |
情景場所旧町名 | 似島町 |
情景場所現町名 | 似島町 |
爆心地からの距離 | 10,000m |
ブロック別 | |
作者による説明 | **絵の中 No.3 八月七日から似島検疫所建物全部に収容された被災者の救護に従事 陸軍特別幹部候補生の十八・九才の若者も来島、死者の火葬を行う バラックをこわした上に死体をのせ、ガソリンをかけて焼く。死体は夏場で一日もすると腐臭を出し、うぢがわく。島内の空気すべてが変った。死者を終日タンカで運んでいた特幹の兵が夕方には力なく座ってしまった程の死者だった。私達も食事が死臭の中でのどに通らなかった。原爆という名稱を聞いたのは八月十五日頃だったと思う。 運びきれない死者は一応建物外の草の上に出された。そうしないと次々と似島におくりこまれる傷者の収容が出来ないから草の上に二日ばかりもおかれた中に広島女専体操教師であったといわれる体かくの良い中年くらいと思える婦人の死体があった。火ぶくれの為か大変重くて特幹兵があとに残したのを記憶している もっとも、火傷と腐はいもかさなり顔もよくわからず中年すぎであるかもしれない。鼻の髙さがわからないのが普通であるくらいに一様に火傷ぶくれしていた。 死者を葬うに軍隊用毛布一枚 これが人間の終りかと悲痛 吾々も一週間全員微熱にだるい体で休みつゝ任務にあたった。 軍医が二十数名おられたが手あての方法が全く無いといってよい状態で火傷ばかりで「赤チンキ、オキシフル、等ぬり薬、それにBカンフルビタミン注射、第一血管がどこにあるのかわからない傷者ばかりであった。 S50.6.8 後藤利文画 **実態調査 死者を運び焼いたのは陸軍志願兵の若者(17才~18才くらい)の兵士(陸軍特別幹部候補生志願兵) |
サイズ(cm) | 38×54 |
展示の説明文 | 皮膚の焼けた臭いがただよう似島検疫所 絵・文/後藤利文氏 1945(昭和20)年8月7日 爆心地から約9km 似島町 「検疫所内の建物も、広場も被災者でいっぱいだった。皮膚の焼けた異臭がたちこめていた。火傷薬は不十分で、リバノール液などの消毒液を使用し、ビタミンの注射をする。朝になると一室で、十数名の人々が虚空をつかむようにして死の床についている。若い志願兵が死者を運び出し、火傷のひどい者を運びこんでくる。広場では火葬が続いている。火葬用の木材が無いので、兵舎の一部を取り壊して死体を上に並べて焼いている。」 手記より抜粋 |