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原爆の絵

識別コード GE03-05
絵の内容 避難場所へ助け合いながら行く被爆者
作者名(カナ) 中原 ヤヱコ(ナカハラ ヤエコ)
作者名(英語) Yaeko Nakahara
当時の年齢 25歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時 1945/8/6(時刻)朝
情景場所 祇園町西原河原沖旧土手
情景場所旧町名 安佐郡祇園町
情景場所現町名 安佐南区祇園町
爆心地からの距離 4,700m
ブロック別 三篠・祇園地区
作者による説明 **絵の中
祇園NHK
土手
赤土のような色をした大つぶな雨
焼けた毛布をかぶっている
少年学童
悲叫しながら避難所へ助け合いながら急ぐ被爆者達。
水!水!と死んだ人
ゲイトルの紐だけが足に巻つき紐をひこじっているとこ
ボロキレを腰にまいている
半ズボンではありません
**裏
S20年8月6日朝
場所
広島市祇園町西原河合沖2588
中原八重子
55才
**別紙
昭和20年8月6日朝
場所 広島市祇園町西原河合沖 旧土手
氏名 中原八重子55才(当時25才)
“ピカッ・ドーン”耳の側ではじかれた様な凄い爆音、子供達は恐怖に泣き叫びながら防空壕にかけりこむ。数十分たった頃外の方がさわがしいので出てみると私の姉2人が疎開木(倒した家の材木)を大八車で朝早く積んで来る途中大芝町で空襲に合い、家の下敷に成ったのを、命からがら、はい出して来たという。家に入ると、もの凄く、ふすまは倒れタンスの開戸はちぎられた様に裂、鏡台はこっぱみじん。
もおもおとした、あつい、ほこり、呆然と立ちすくんでいる所へ全身が真黒に焼けふくれあがり見るも無残な学童(12才位)2人が熱さと痛みに耐えながら互に助け合い日陰を求めて「休ませて下さい」と言って来た。残されたものは、しっかり結ばれていたゲイトルの紐だけ。それをひきずりながら、頭に毛布をかぶり力無く、立っていた。私は泣きました。必死に成って涼しい場所へ案内した。ふくれあがった手足、体は持ちどころが無く、そっと持っても皮がジュッととれる。なんとも言えない悪臭少年は母に逢いたいと、涙もみせないで必死で生き様としている。
“頑張るのよ、夕方までには決っと両親が迎に来られるから」と、早速、西原にあるという親戚に子供を走らせる。1秒も、無駄にする事は許されない状態だった。だのに、両親の元へ帰り2日目には、つぼみのまま、お国の為に、散ったのです。わずか12才で!あの時の2人の姿が、30年過った今なお、脳裏から、はなれないのです。必死で生きようとしていた瞳、そして死。この世の生地獄とは赤黒く、焼けた裸身のまま母を!子を!叫び狂う、人々の波が土手の幅いっぱいに助け合いながら、避難するのです。点々と、たどりつかず息たえた人々が土手に…。戦争は2度と、再びくりかえしてはならない。強く、願う者であります。
サイズ(cm) 25.5×35.5
展示の説明文 赤土色の雨が降る中、助け合って避難場所へ急ぐ人びと
爆心地から約4,700m、安佐郡祇園町(現在の安佐南区祇園町)
1945(昭和20)年8月6日午前
中原 八重子

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