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原爆の絵

識別コード GE01-44
絵の内容 広島陸軍被服支廠での救護の状況
作者名(カナ) 草田 隆夫(クサダ タカオ)
作者名(英語) KUSADA Takao
当時の年齢 52歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時 1945/8/6(時刻)8:30
情景場所 広島陸軍被服支廠
情景場所旧町名 出汐町
情景場所現町名 出汐二丁目
爆心地からの距離 2,670m
ブロック別 皆実・宇品地区
作者による説明 **絵の中
時 昭和二十年八月六日八時三十分
一般状況のあらまし
一、昭和二十年八月六日午前八時三十分頃より次から次となだれ込む(中には妙な姿をしたものあり)
二、避難者は中年の男子の人が多かった。婦女子、子供は少数。
三、兎も角被爆と直後の火災に追われて被服廠に行けば広場があると異心傳心的に心得たものと思ふ
四、 一般の叫び「イタイ、水クレ蔭へ」この三つであるこれだけは私今に耳朶に残って居る
五、私の仕事としては塗油、繃帯、運搬、ところ、名前を記録、位置移動、である蔭は主として樹下(松、桜、楠、天幕、破損建物一隅)
六、平素仮想任務訓練とは全く異なり凡てが臨機応変で血迷ふばかりであった
七、主に焼ど次は外傷であるけれど何しろ医師が居ないので困った幸に豆油(食用)があったので布片を木の先につけて布片で繃帯する程である
八、意識あるものは布片や荷札で住所氏名を点付すると共に応急名簿をつける
九、必要に応じ炊出しの雑炊を與へる
一〇、六日午后三時頃避地(田舎)より応援の医師「槙殿(?)」見廻りがあったのを覚ゑて居る
一一、天幕内は熱いから出して呉れと言ふ者が多かった
一二、午后から気分が良く軽易な患者は自宅或いは知己を尋ねて帰って行く人も多かった。重症者で夜を徹する人は二 三人位でした
一三、捜し人が来て同行してつれて帰る人も大分ありました
一四、千田町の方面段原方面からの被爆又は疎開援助のための被爆の人が多かった様に感じました
一五、被爆と同時に火災に追われて避難のもの多く察するに自らの意識と体力を以て兎に角被服に逃れて来たと言ふ中程度の被爆者が多かったと思ひます
一六、蔭に居る患者は程なく太陽の光線の移動に依り直射を受けるので「イタイゝ蔭へゝの連発するものが多かった
一七、勤め先の同輩にも被爆負傷するものもあり人手不足で充分なる避難患者の要求に応じられなかったことを今でも思ひ出します
一八、被爆患者は焼痍に加ふるに火災熱氣と真夏の太陽の直射で苦しかったことならんと今にして思ひ半に過ぐるものがあります
一九、筆者も矢賀町で近親も宅にも色々被害もありましたが自分も平素から言ひ含めて勤め先本位でやって居るので五日間連絡も取らず帰宅しませんでした
二〇、從来の業務は急変のため勿論無頓着の有様でした
草田隆夫 82才
サイズ(cm) 38×54
展示の説明文

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