識別コード | SG-0783 |
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絵の内容 | 広島の川の想い出 「あの日」の川の水 |
作者名(カナ) | 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) |
作者名(英語) | Seigo Nishioka |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | 西岡 誠吾 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/8/6 |
情景場所 | 南大橋付近 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 1750 |
ブロック別 | 国泰寺・千田地区 |
作者による説明 | *絵中 「あの日」の川の水 1945年8月6日中学1年生。「あの日」爆心地南2㎞で被爆して、多くの人に助けられました。 被爆直後、顔の火傷の部分が熱くて冷やしたい気持ちと喉が渇いたので「水」を求めて蛇口を探したが見つかりませんでした。仕方がなく近くの元安川の水を飲もうと思って川土手を下りました。川は満潮から引き潮に変った時で、川の水は川幅いっぱいに勢いよく流れていました。その川には力尽きた被爆者が次々と川幅いっぱいに流されていました。 川の水を右手で掬って一口飲んだら辛くて吐き出しました。海水でした。火傷を冷やそうと思ったが塩分があるので諦めました。直ぐ傍には死体が切れ目なく流れていました。 それと同時に南大橋の上から知らないおじさんが「火傷に水を飲んだら死ぬるぞ!」と叫んでいました。どうやら私に向かって注意をしていました。 私は土手の上に座って周りを眺めていました。火傷をした被爆者がぞろぞろと火勢に追われて南の方に向かって歩いていました。みんな無言でした。 私は恐怖と不安な気持ちになりました。家族の安否、食べること、寝るところは、学校は・・・ 13歳の少年は怯えていました。 *別紙 「あの日」の亡き友のお母さんの記事です。 己斐の山を上がった所のお宮さんに、九十ぐらいのお婆さんがおっちゃったんです。そのお婆さんは死んだ人に合わせてくれるという、不思議な話があったんです。 私はそこへ行きまして、「息子に会わせてください」と頼んだんです。そうすると、そのお婆さんは、息子とそっくりのいい方で話すんです。「お母さん、川へ入ったら助かると思って川へ入ったんよ。そしたら手も足もきかず、プルプルッと沈んだんよ。でももういっぺん浮かんだんよ。『天皇陛下万歳』と叫んだんよ。それから沈んでしもうたんだけど。苦しゅうなかったよ」と。迷信と言われるかもしれませんが、(ああ、息子はやっぱり、川で死んだんだ)と思っています。それで、私の気持ちが落ち着きました。今日も川へ一番にお参りに行きました(1989年夏) ヒロシマの復興 被爆したヒロシマは焼け野原になりました。今は見事に復興して被爆当時を知る風景は無くなりました。「あの日」から変わらないのは市内を流れる美しい川です。しかし、被爆者はあの「地獄の川」と重なって川面を眺めています。これは一生消えることがないでしょう。 |
サイズ(cm) | 42×29.7 |
展示の説明文 |