識別コード | SG-0727 |
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絵の内容 | 青木くんのバラック |
作者名(カナ) | 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) |
作者名(英語) | Seigo Nishioka |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | 西岡 誠吾 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | |
情景場所 | 稲荷橋西詰め |
情景場所旧町名 | 下柳町 |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 1300 |
ブロック別 | 銀山・幟地区 |
作者による説明 | *絵中 青木くんのバラック 1945年春。希望に燃えて広島県立広島工業学校(電気科)に入学しました。 「あの日」8月6日、米軍が史上初めて広島へ原爆を投下して、建物疎開作業をしていた多くの友人を失いました。 私のクラス54人の内10人は生き残りました。その生き残りとは、家族の葬儀で欠席した青木くん、呉市の空襲被害を受けた生徒、汽車や船に乗り遅れた生徒、私のように体調が優れない生徒でした。 生き残った青木くんは、戦後の苦しい生活でも明るく元気にふるまっていました。特に野球部のレギュラーで素晴らしい活躍をしていました。超食糧難時代に運動ができるのが不思議に思っていました。 ある日、青木くんに誘われて彼のバラックに行きました。稲荷橋西詰めの土手の下に、石崖にへばりつくように建っていました。屋根も壁も焼け跡から拾い集めたトタン板です。 一番驚いたのは、バラックの中の土手側は石崖でした。雨が降るとその石崖に雨水が流れます。屋根にはボロキレで雨水を防いでいますが、激しく降ると雨水が漏れてくるそうです。大変な生活でした。 *別紙 当時のバラックの生活は大変でした。冬は寒く冷蔵庫の中にいるようで、隙間風が容赦なく吹き込んできます。夏はトタン板が焼けてサウナ風呂の様です。みんなよく耐えたと思います。 彼のお母さんは病気になり床に臥せていました。お姉さんは一家を支えるために働いていました。 青木くんは家計が苦しくなったので、高校への進学を諦めてカメラ販売店に就職しました。 1950年高校3年の時、青木くんが勤めるカメラ販売店に行きました。青木くんはカメラの知識や技術を習得し、笑顔で接客する素晴らしいカメラ店員に成長していました。 その青木くんは20代後半、若くして突然旅立ちました。被爆の影響と言われていました。 生き残りの仲間を一人失いました。続くようにクラスの生き残りの友は亡くなりました。 街中の「石垣」を見るたびに青木くんを思い出します。 以上 |
サイズ(cm) | 42×29.7 |
展示の説明文 |