識別コード | SG-0714 |
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絵の内容 | 同級生と江田島海軍兵学校 |
作者名(カナ) | 尾崎 稔(オザキ ミノル) |
作者名(英語) | Minoru Ozaki |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | 尾崎 稔 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1944 |
情景場所 | |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
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作者による説明 | *絵中 同級生と江田島海軍兵学校 僕の記憶 江田島の呉服屋のムスコ? (学校調査)御調郡御調町(現尾道市) 当時寄宿舎生 顔だちは野球の本塁ベースのような、平たくガッチリしていた。一見頑固そうだが鷹揚だった。 口数は少なかったが、彼も兵学校への進学を夢みていたかも知れない。原爆で全ての希望を断たれた彼等の無念さは、忘れることは無い。ご冥福をお祈りします。 江田島には海軍兵学校があり、少年の憧れの学校だった。兵学校は中学4年終了者が受験出来た。明治時代より全国に予備校的学校があり、広島では一中、呉一中、修道の3校があった。この3校が常に入学者数の上位〆めていた。 僕等が始めての終りになった昭和19年の兵学校入校生の先輩から話しを聞いたのも、原爆被災の半年前だった。今思い出すのは、兵学校講堂入口に東郷元帥の云葉が掲示されていたこと。うろ覚えではあるが、”軍人たる前に、紳士たれ?(違っているかも?)”など、深く感銘したこともあった。 昭和19年海軍兵学校生徒の帰校 修道中学25米プールの片スミで話しを聞いた。新鮮な参考になる話が多かった。 2022年令和4年11月9日 尾崎稔90才10か月 |
サイズ(cm) | 27×38 |
展示の説明文 |