識別コード | SG-0699 |
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絵の内容 | 兄の赤紙と父3 父の思い |
作者名(カナ) | 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) |
作者名(英語) | Seigo Nishioka |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | 西岡 誠吾 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1950年秋 |
情景場所 | |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
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作者による説明 | *絵中 兄の赤紙と父 3父の思い 父は1950年(昭和25年)秋、原爆症(白血病)で亡くなりました。体中に紫色の斑点が出来て「体がだるい、だるい」と言っていました。村の医者に紹介されて広島県立医科大学付属病院(現広島大学附属病院)に検査入院をして3日後に息を引き取りました。47歳の若さでした。私は高校3年生でした。 父の死後、母から父の思いを聞きました。 長兄が出征した日の夕食後、父は親しくしていた「軍医」宅を訪問しました。「長男が戦争で死ぬるのは親として耐えられません。どうか軍医さんのお力で徴兵検査不合格の手配をお願いします」と何度も頭を下げてお願いしました。「軍医」は自分の立場を考え、暫くして「よっしゃ、即日帰郷を命じよう」と言われました。そのお陰で長兄は夜遅く家に帰って来ました。 「軍医」には大変お世話になっていました。全ての物資が不足して苦しい時代に医療薬や衣類などを頂き大変助かっていました。 父は3人の息子を技術者に育てて、国内で働き戦場に出ないことを祈っていました。そのために、3人の息子の中学は工業学校に進学させました。化学科、機械科、電気科。 長兄が入営した時、徴兵検査に合格した人は全員戦死されました。 その当時の戦局は、アメリカ軍が沖縄に上陸し、主要都市は爆撃で焼け野原となり、いよいよ「本土決戦」の時が来た、「一億総決戦だ」と叫ばれ、国民に戦意高揚を求めていました。 父は戦況と家族の板挟みで悩んでいたと思います。 以上 |
サイズ(cm) | 42×29.7 |
展示の説明文 |