識別コード | SG-0675 |
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絵の内容 | 戦時中の隣組 あの日 |
作者名(カナ) | 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) |
作者名(英語) | Seigo Nishioka |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | 西岡 誠吾 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/8/6 |
情景場所 | |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | |
作者による説明 | *別紙 戦時中の隣組 あの日 1945年(昭和20年)8月6日。広島の街はアメリカ軍が落とした1発の原子爆弾で、多くの命を奪われ焼け野原となりました。 あの日、父は商用で自転車に乗っての帰路、泉邸(現縮景園)前で被爆しました。大きな松並木に遮られて熱線は免れたが、爆風で倒れた松の木で後頭部に怪我を負い激しい出血をしました。 急いで帰宅し、自宅の台所にいた母を助け、自らのケガも厭わず隣組の方々6人救助し、一緒に戸坂方面へ避難しました。避難途中、歩けなくなった知人女性を自転車に乗せて避難の仲間に加わりました。白島の町は既に火の手が上がっていました。 私は9日振りに呉線坂駅前で隣組の母娘とばったり再会しました。被爆後初めて知った人と出会ったのでとても嬉しく「地獄に仏」でした。 おばさんは一番に「あんたの家族はみんな生きとるよ」と言われました。それは、「白島国民学校のコンクリート塀に、木材の焼け炭で書いた家族の安否や避難場所を見たと言われました。コンクリート塀は「被爆者の伝言板」となりました。 その年の元旦に、「隣組の新年宴会を来年もやろうね」と言われた隣組の人々も多くの犠牲者があり、住まいも散り、二度と21組の顔が集まることはありません。あの新年宴会は初めての最後でした。 愚かな戦争や恐ろしい核兵器のない、平和の世界を望みます。 |
サイズ(cm) | 11×11.8 |
展示の説明文 |