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原爆の絵

識別コード SG-0671
絵の内容 父はタクシー業を営んでいた
作者名(カナ) 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ)
作者名(英語) Seigo Nishioka
当時の年齢 13歳
寄贈者名 西岡 誠吾
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1940年頃
情景場所
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 *別紙
「乗客A」
父はタクシー業を営んでいました。タクシーと言ってもハイヤーです。完全予約制のタクシー業でした。当時(太平洋戦争前)は公用車や自家用車が普及していなかったので、それなりに繁盛していました。時々、父は今日も「巡査」に呼ばれた、と言って疲れた顔をして帰っていました。
「巡査」は「乗客Aはどこまで乗せたのか?」「クルマの中で何を話したか」「下す時誰かいたか?」「クルマの中の態度は?」・・・・・・・・
次々と畳み込み、声を荒げ、机を叩き完全に犯人扱いでした。
太平洋戦争が始まると、ガソリンの統制と「贅沢は敵だ」の国策でお客が減少し、軍の強い要請でクルマはタダ同然で買い取られました。今もクルマのナンバーが記憶にあります。
戦局が厳しくなり、転勤や疎開が多くなったので引っ越しの運送業に転じました。人力のリヤカーです。重労働のため配給米は少し多くありました。
当時のクルマは、出発するときはクルマの前でハンドルを回してエンジンを起動していました。クラクションは手元のゴム風船をつぶしてラッパが鳴ります。方向指示は手動で操作すると、赤い電灯が付いた棒状の指示器が飛び出します。当然エアコンはありません。父は日曜日には点検整備をしていました。父は自慢していました。「シリンダーのボーリング以外は何でもできる」。

フォード車(1940年頃)
サイズ(cm) 7.6×14.8
展示の説明文

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