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トップページ原爆の絵新聞を見て80年前を思い出す 白島小学校

原爆の絵

識別コード SG-0662
絵の内容 新聞を見て80年前を思い出す 白島小学校
作者名(カナ) 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ)
作者名(英語) Seigo Nishioka
当時の年齢 13歳
寄贈者名 西岡 誠吾
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時
情景場所 白島小学校
情景場所旧町名 東白島町
情景場所現町名 東白島町
爆心地からの距離 1400
ブロック別 4.基町・白島地区
作者による説明 *絵中
白島小学校
白島小学校は、1873年(明治6年)白島町の万行寺に知心舎という名で発足したのが、白島小学校の始まりであり、前身です。
その後、白島の子どもは幟町小学校へ通学していましたが、1902年(明治35年)東白島町に白島尋常小学校として独立・開校しました。
被爆前の白島小学校は、今のNTT白島クレド西にありました。広さは約4.1haです。創立120年の長い歴史と伝統ある小学校です。
在校当時の児童数は約1,700人のマンモス校でした。白島は軍人町で、半数近くが軍人と家族、軍人についではサラリーマンが多く、特に鉄道局と通信局ができて、一層増えました。
時代が進むにつれて児童数が増え、校舎が次々と増築されました。最後の増築校舎に初めて防火壁が建設されました。
この防火壁のある廊下を通る度に、「なんで、こんなものがあるのか?」と子供心に不思議に思っていました。
教室は学年が変わるごとに移動していました。1,2年生は男女共学ですが、3年生以降は別々になります。1クラス約40人でした。

白島小学校の配置図
講堂
防火壁
4年川本組の教室
ジャングルジム
正門

*別紙
2021年(令和3年)12月14日付け中国新聞の「ひろしまの空白・被爆76年」の記事に私が通った白島小学校の写真がありました。
「焼け残った防火壁」の傍の4年生川本組の教室を思い出しました。また、「ジャングルジム」も懐かしい思い出です。

*別紙
小学校は生まれて初めて多くの知識を吸収する団体生活です、長い人生の中でも思い出が多く懐かしいです。
白島小学校は進学率が非常に高く、教育熱心な先生に恵まれました。戦争の時代でした。
小学校内のジャングルジムは主に低学年が遊んでいました。4年生の私は身長123.7㎝ 体重24.8kgの記録がありました。
サイズ(cm) 42×29.7
展示の説明文

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