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トップページ原爆の絵西の海のはるかむこうに煙が大きく空を覆うように白く黒くきのこの形にもくもくと上がっていた。

原爆の絵

識別コード NG338
絵の内容 西の海のはるかむこうに煙が大きく空を覆うように白く黒くきのこの形にもくもくと上がっていた。
作者名(カナ) 宇治原 房代(ウジハラ フサヨ)
作者名(英語) Fusayo Ujihara
当時の年齢 11歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6(時刻)8:30頃
情景場所 愛媛県温泉郡難波村大字上難波中筋
情景場所旧町名 愛媛県温泉郡難波村
情景場所現町名 愛媛県北条市
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵の中
この平和
遠ーい
記憶の
夏休み
房代

**別紙
原爆の絵
場所(目撃地) 愛媛県温泉郡難波村大字上難波中筋 
町村合併の為 北条市上難波(中筋)甲789番地の前の小高い山の上(家では上の山と呼んでいた)
日時 昭和20年8月6日朝8時30分頃  
名前 宇治原房代 
この絵によせて
習っている俳画で描いてみました。絵がうまく描けないので… 想いを綴らせていただきました。同封させていただきます。
ピカドンによせて (残したい事、伝えたい事)      宇治原房代
瀬戸内海の美しい島並、夕日が美しい海、この静かな村にも穏やかではない出来事が…
 子供の頃、戦争があった。
「欲しがりません。勝つまでは」と国民は、子供達までも時の政府のやり方に洗脳されてしまっていた。それが当たり前、絶対に勝つものと、信じさせられた。
 農民に強いられた増産、増産、供出、供出の毎日、作った作物は「兵隊さんの為」と、子供達は餓じいおもいで、野原の草までつんで飢えをしのいだ。
 でも結局戦争には負けてしまった。今、思えば軍隊は、そして政府も、国・国民を守っては呉れなかった。
 隣組とか国防婦人会とか言う組織が作られて、女性達は銃後の守りと、竹槍の訓練に励んでいた。空にはB29米軍の大型機が翼をきらきら光らせて飛んで來た。「日本人 早く降参しろ」と、日本語で、しかも日本字で書かれたビラが舞い降りた。大人が「役場へ届ける。」と言っていた。
 昭和20年7月26日夜、南の空が真っ赤に染まった。松山の空襲…27日の早朝、3時半頃叔母と従姉が防火バケツを1つさげて「焼け出された」と、着の身着のままで帰ってきた。4~5日して、次は東の山の上が赤く燃えた。今治の空襲である。隣町の紡績会社にも焼夷弾が落ちた。
 8月6日朝、広島にピカドンが落ちた。
大人達が家の前の小高い山へと登っていく。子供達も続いて登っていった。西の海の遥か向こうの島の上に煙が…大きく空を覆うように白く、黒くきのこの型をしてもくもくと上がっていた。大人達は「広島にピカドンが落ちた。」と叫んでいた。そのうち煙の回りを縁どるように、雷鳴が裂ける時の光のように赤く、黄色く火が見えた。子供達は泣いた。大人達の眼にも涙が浮んでいた。火は何日も何日も燃え続けた。「アメリカが憎い」「戦争が憎い」夏休みの出来事であった。
 8月15日終戦。「日本は敗けたのだ」天皇陛下のお言葉がラジオで流された。皆んな泣いた。
 初秋のある日、集会堂の前にあるお地蔵さまの回りで子供達が遊んでいた。そこへ初老のおじさんが来て、近くに住む老女と、話をしていた。子供達もそばへよって行き、おじさんの話を聞いた。
 ピカドンの話である。おじさんの背中、腕、手足は赤紫色に膨れ上がっていた。「ピカドンの光を浴びた所がひどく焼けた。」と、大火傷である。背中は、着物の上からだったと言うが一番ひどい。「着物が触ると痛い。」とシャツを脱いでいた。痛々しい。
 老女がピカドンの事を色々と聞いた。「広島の様子は、ピカドンが落ちた所は、75年もの間草木も生えないと言うけど」と、おじさんは「そんなこと、嘘ですよ。10日もしたら千里草が生えています。人の噂も75日と言いますが、雑草は強いものです。」と、子供達もおじさんの大火傷を眺めながら話を聞いて、ピカドンの恐ろしさを感じた。私も一緒にである。
 「あの時のおじさんは、もう居ないだろうなあ」夏休みの頃になると想い出す。そしてピカドンの事も、戦争の事も。
 広島のピカドンは、戦争の怖さを私達に教えた印なのか?この年令になってもあの時の記憶は消えない。57年も前の出来事なのに…この平和、57年の年月を経て…得たものだろうか?だから、つぶさないでほしい
 この平和…地球上に生きる人々よ、子ども達よ、そして時の政府よ、と…ただ祈るのみ
 この絵に添えて、57年間の想いを送る。
サイズ(cm) 26.7×34.7
展示の説明文

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