menu

トップページ原爆の絵叔父を迎えにいく。熱線をまともに浴び顔はやけどで声を聞いてやっと本人とわかった。

原爆の絵

識別コード NG201
絵の内容 叔父を迎えにいく。熱線をまともに浴び顔はやけどで声を聞いてやっと本人とわかった。
作者名(カナ) 西村 八千代(ニシムラ ヤチヨ)
作者名(英語) Yachiyo Nishimura
当時の年齢 22歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6(時刻)夕方
情景場所 安芸郡戸坂村
情景場所旧町名 安芸郡戸坂村
情景場所現町名 東区戸坂
爆心地からの距離 5,170m
ブロック別
作者による説明 **裏
神戸からの先生ハ佐藤と云はれた様です
西村八千代
**別紙
伊藤敏美
君子 叔母夫婦ハ医師でした(当時三十才位でした)
当時私ハ郷里ノ中深川に疎開しておりました。八月六日夕方郵便局に勤めていた幸ちゃんが叔父からの伝言の紙を渡され戸坂の田村宅に来る様にとあり明朝早く戸坂の駅に下り探して大きい家ですぐ分り二階に案内され叔父は何処か一瞬部屋中見渡しますと中央にお友達の神戸から入隊しておられた先生と二人で話して居られ叔父は地図の分らない先生の手を引き戸坂迄逃げ田村宅に二人で来ていたらしく、叔父は上を向いていたらしく正視出来ない位。之があのハンサムの叔父の顔であったのかと顔を見たゞけでは分らず声でやっと叔父と云う事が分る様な状態です。友の佐藤先生ハ下を向いておられ顔は無きづできれいでした。叔父を見ていると涙が出て止らず叔母に早く知らせなくてはと持ってくる物をかいて三次迄叔母を連れに汽車に乗り粟屋の叔母ヲ連れて田村宅に叔父の処に連れて行き神戸の先生宅に連絡して上げて私の方も姉が床についておりましたので深川に帰りました。それから三人で三次の病院に帰へり神戸の先生はすぐ亡くなられたと聞き、原爆の恐ろしさは叔父の方が早く亡くなると思っていましたが叔母が医師だったので三人の男の子の為にもと思い必死で看病につとめた甲斐あり段々と生氣を取り戻し保険所に勤める身に迄に。三次町 蓑岡源二様が住んで営業されている病院を建て三人の子供を東大・阪大・東邦医大と三人共立派に成人させ、最後に教育長に迄もなり六十一才迄人世の爲になり人生を全うする事が出来たのも叔母が蔭での力があればこそ。その叔母も一昨年九十二才で大往生を遂げる事が出来たのも叔母は曲った事が嫌いで清く正しく正直がモットーでした。私共叔母が身を持って教へて頂き人生を楽しく明るく過させて頂いてます。

今も感謝です。
平成十四年七月五日
西村八千代
叔父は旧基町陸軍病院、現在市民球場にて被爆す。

神戸の先生ハ佐藤と云はれた様です。
サイズ(cm) 29.7×41.8
展示の説明文

戻る

Page Top