トップページ原爆の絵建物疎開作業で被爆死した息子を捜しあて運んできた叔父を手伝って真夜中に大八車で可部まで行く。
識別コード | NG132 |
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絵の内容 | 建物疎開作業で被爆死した息子を捜しあて運んできた叔父を手伝って真夜中に大八車で可部まで行く。 |
作者名(カナ) | 西崎 俊夫(ニシザキ トシオ) |
作者名(英語) | Toshio Nishizaki |
当時の年齢 | 37歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/6(時刻)深夜 |
情景場所 | 安佐郡祇園町~安佐郡可部町 |
情景場所旧町名 | 安佐郡祇園町~安佐郡可部町 |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | |
作者による説明 | **絵の中 八月六日 真夜中原爆死体を荷車にのせて祇園より可部まで運ぶ 西崎 俊夫 **別紙 妻の叔父さんが可部で青年学校の校長をしていた。その確か四男であったと思う。建物疎開のため廣島市に出て被爆死した。それを探し当て、荷車に乗せて漸く祇園まで帰って来た。しかし可部まで運ぶ力も根も無くして私の処まで辿り着くのが精一杯であった。八月六日の眞夜中、私が車を引き叔父さんが前引をして可部まで眞暗な道をゴトゴト進んだ。途中空には米軍の飛行機が何回も襲来し照明弾を投下する。その青白い光を美しくも気味悪いとも感じたものである。 後で叔父さんがあの混乱した被爆状況下で如何にして自分の子を探しあてたかを語って貰った。沢山の中学生の被爆死者の中、いづれも真黒に焼けただれて死んでいる。その一つ一つの死体の口を開けて歯の状態を調べる訳である。そして自分の子を探し歯を確認した時の叔父さんの喜びは格別で又悲しみも深いものがあったと想像される。 西崎俊夫 九十四才 |
サイズ(cm) | 27×37.9 |
展示の説明文 | 被爆死した叔父の子の遺体を探し当て、荷車を引く。 |