識別コード | GE32-07 |
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絵の内容 | 両親と離れ離れになり放心したような男子 |
作者名(カナ) | 宇城 フユコ(ウジョウ フユコ) |
作者名(英語) | Fuyuko Ujo |
当時の年齢 | 18歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集) |
情景日時 | 1945/8/7(時刻)6:00頃 |
情景場所 | 陸軍運輸部馬匹検疫所 |
情景場所旧町名 | 似島町字大黄 |
情景場所現町名 | 南区似島町 |
爆心地からの距離 | 10,000m |
ブロック別 | |
作者による説明 | **絵の中 昭和二十年八月七日朝 似ノ島檢疫所 大王収容所にて 土橋方面から逃げて来られた人達の中にいた、ヒロユキちゃんと云っていた。七才の男の子。両親とはなればなれになって放心したように、ぼんやりとしていた。 皆んな一様に帽子をかぶってゐた所だけがおわんをかぶせたように髪毛がやけないで残っている オカユや水をあげた竹のコップ 息の絶えた赤ちゃんを、しっかりと抱いてお乳をふくませようとしておられた若い母親。この方も翌日亡くなられたそうです。 八月七日夕方亡くなられました。 広島二中の生徒さんで尼崎出身。 自分がこゝにゐる事を家へ知らせてねと何度も云っていた。今でもはっきりした声は私の耳に残っています。 「お姉さんゝ、僕がこヽにゐるこ事をハガキで家へ知らせてね、ね住所は尼崎市○○○○○○○○○○です」とハッキリとした声で云っていたけど、私の記憶は尼崎市だけになってしまいましたが、後に、尼崎をたよりに、さがしてあげる事が出来ました。 福村さんと云ふ方でした。 アンペラ **実態調査 この男の子は土橋の方からのがれて来たとの事 両親はわからなくなり泣きもしないでぼーっとしていて名前聞いたら○○ひろゆきと云っていました 私達も6日の夜から1すいもしないで走り廻っていて、頭をさわり冷たくなっている人は兵隊さん達が次々と運んで行かれ7日の朝8時頃に交替して休すみました |
サイズ(cm) | 21×29.5 |
展示の説明文 | 両親と離れ離れになり放心した男の子、死んだ赤ん坊に乳を含ませようとする母親、家族への連絡を頼む中学生 絵・文/宇城フユコ 1945(昭和20)年8月7日朝 馬匹検疫所 「ヒロユキちゃんと言っていた7歳の男の子。両親とはなればなれになって放心したようにぼんやりとしていた。息の絶えた赤ちゃんをしっかりと抱いてお乳を含ませようとしておられた若い母親、この方も翌日亡くなられたそうです。広島二中の生徒さんで尼崎出身、自分がここにいることを家へ知らせてねと何度も言っていた。今でもはっきりした声は私の耳に残っています。」 絵の中の説明文より抜粋 |