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被爆資料

識別コード 9399-0178
資料名 事実証明書
資料名(英語) Certificate of facts
寄贈者(カナ) 松尾 潤子(マツオ ジュンコ)
寄贈者(英語) MATSUO Junko
受入年月日 2016/8/12
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 130×177
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 中国軍管区工兵補充隊所属の道下拓廣(みちした たくひろ)さん(当時22歳)は、白島北町(爆心地から約2㎞)で居住スペースの清掃中、仲間の「B29だ」という声に、兵舎外に飛び出し、左手を額にかざして空を見上げた。ピカッと光り、非常な熱さを感じて兵舎に走ったが、階段を半ば上がった途端、「ドーン」という音とともに倒れた兵舎の下敷きとなった。暗闇の中、わずかな光を頼りに登って這い出すと、あたりは見るも無残な状態で、呆然とするばかりであった。左顔面、左手の甲、左足の甲が赤く焼け、激痛が走った。着ていたシャツの肩に二か所の焼け穴があり、ズボンの左側面が焼けこげていた。放心状態で、さながら地獄図となった街から戸坂まで逃れ、夕方、民家に収容された。「火傷した手は下げていると痛く、ひじの高さで水平にして歩いた。手の甲の皮がむけて垂れ下がり、さながら幽霊のようだった。」と後に語っている。2~3日で歩けなくなり、最後は担架で島根県にある広島第一陸軍病院大田分院に収容された。傷は日に日に悪化し、化膿し続けた。8月15日に終戦。帰ってもよいと言われたが、歩くこともできず、8月18日、義兄に背負われ、三次市の実家に帰郷した。家に帰っても化膿は止まらなかったが、復員軍医よりもらった錠剤を飲んでから、奇跡的に回復した。しかし、早くから歯が抜け、体には紫斑が出現、下痢や頭痛など、原爆症と思われる症状に苦しめられた。兄の道下俊明さんも、基町で被爆。手がかりとなるものは何も残っておらず、行方不明のままである。これは、「新型爆弾により受傷」したことを証明するもの。1945年(昭和20年)8月21日広島第一陸軍病院大田分院長発行。
ブロック別
展示説明文 事実証明書
寄贈/松尾潤子(マツオ ジュンコ)氏
中国軍管区工兵補充隊所属の道下拓廣(ミチシタ タクヒロ)さん(当時22歳)は、白島北町(爆心地から約2km)で、被爆。「ドーン」という音とともに倒れた兵舎の下敷きとなりました。這い出すと、あたりは見るも無残な状態でした。左顔面、左手の甲、左足の甲が赤く焼け、激痛が走りました。放心状態で、さながら地獄図となった街から逃れ、夕方、民家に収容されました。「火傷した手は下げていると痛く、ひじの高さで水平にして歩いた。手の甲の皮がむけて垂れ下がり、さながら幽霊のようだった。」と後に語っています。数日で歩けなくなり、最後は担架で島根県にある広島第一陸軍病院大田分院に収容されました。傷は、日に日に悪化し、化膿し続けました。終戦を迎え、歩くこともできず、8月18日、義兄に背負われ、実家に帰郷しました。一旦は回復しましたが、体には紫斑が出現、生涯、下痢や頭痛など、原爆症と思われる症状に苦しめられました。これは、「新型爆弾により受傷」したことを証明するものです。1945(昭和20)年8月21日広島第一陸軍病院大田分院長発行。
展示説明文(英語) Certificate of Facts
Donor: Junko Matsuo
Mr. Takuhiro Michishita (22 years old at the time) of the backup engineer unit of the Chugoku Regional Military Headquarters was exposed in Hakushima-kita-machi (approx. 2 km from the hypocenter). The barracks collapsed with a large “boom” on top of him. Crawling out of the building, he saw the tragic view. He suffered burn injuries to the left side of his face, the back of his left hand and the top of his left foot. That caused severe pain. In a state of numbness, he fled from a city that looked like hell and by dusk he was taken in by a private home. He said later, “My burned hand hurt when it hung low, so I bent my elbow, keeping my forearm parallel to the ground. The skin on the back of my hand peeled and hung down, making me look like a ghost.” After a few days, he could no longer walk, and in the end, he was carried on a stretcher to the Ota Branch of Hiroshima First Army Hospital in Shimane Prefecture. His injuries worsened each day, continuing to fester. The war ended but he still couldn't walk, and on August 18th, he was piggybacked by his brother-in-law and returned home. He appeared to have recovered, but then purple spots began to appear on his body. He suffered from diarrhea, headaches and other symptoms seemingly indicative of the A-bomb disease for the rest of his life. This is to prove that he was “injured by the new bomb.” Issued by the head of the Ota Branch of Hiroshima First Army Hospital on August 21, 1945.
資料性質 被爆関連資料

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