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被爆資料

識別コード 9309-0101
資料名 国民学校訓導任命書
資料名(英語) Appointment letter to Shizuko as elementary school teacher
寄贈者(カナ) 尾形 康弘(オガタ ヤスヒロ)
寄贈者(英語) OGATA Yasuhiro
受入年月日 2020/11/14
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 295×210
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 寄贈者の伯母・尾形靜子(おがた しずこ)さんのもの。1944年(昭和19年)5月31日に広島県から授与された国民学校訓導の任命書。
広瀬国民学校の教員だった靜子さん(当時18歳)は学校で被爆した。校舎の下敷きになり全身に傷を負ったが、何とか抜け出すことができた。その後、火災から逃れるため、学校の裏の天満川へ向かった。多くの人が川の中に入り、木につかまりながら対岸の中広町方面へ渡っていく中で、靜子さんは出血が多く、対岸も炎に包まれていたため、避難することが出来なかった。6日は傷を負った同僚の教員とともに学校近くの天満川の河原で一夜を明かした。
翌7日の昼前ごろ、靜子さんと靜子さんの母親のヤエノさん(当時41歳)を捜して市内に入った父親の亀(すすむ)さん(当時48歳)と再会。大八車に乗せられ、疎開していた長束のヤエノさんの実家に戻った。
靜子さんは全身が泥と血にまみれ、特に顔の傷がひどかった。傷口にガラスの破片と砂が入り、血が固まって化膿しかけていた。治療のため近所の医師を訪れたが、手の施しようがなく、傷口を消毒するのみだった。一週間ほど高熱で苦しみ、家族が懸命に看病したが薬もなく、傷口を乾かすために歯磨き粉を付けたり、やけどに良いと聞いて桐の実を黒く焼いたものを油でといて付けたりした。月日が経過しても全身の傷はなかなか治らず、傷口は膿み、出血した。やがて髪の毛が抜け、体中にはしかのように斑点が現れた。
翌年には広島逓信病院で何度も手術を受けたが傷は元のようには治らなかった。教員を辞めようと考えたが、周囲に説得されて1947年(昭和22年)1月から本川国民学校に勤務。原爆で母親を失った悲しみや傷を負った辛さを抱えながら「二度と子どもたちに戦争の憂き目をみせないように」と子どもたちの幸せを願い、教育に力を注いだ。自身の被爆体験も伝え、44歳の時にがんで亡くなるまで、平和の大切さを訴え続けた。
ブロック別
展示説明文 尾形靜子さん 当時18歳
広瀬北町 爆心地から1.2km
広瀬国民学校の教員。
校舎の下敷きになりましたが、警備隊に引き上げられました。
顔の傷がひどく手術を繰り返しましたが、元のようには治りませんでした。
子どもたちの幸せを願い、教育に力を注ぎましたが、44歳でがんで亡くなりました。

尾形さんの手記:
二十年、三十年、百年とた って人々の脳りからピカの事は忘れられても、
私は一層忘れることが出来ない。
焼き印を女の命とも云われる顔に押されたのだもの。
もう私の一生はめちゃくちゃだ。
ピカがにくい。ピカさえなかったらと思う。
自分たちは平和の捨て石になったのだ・・・。
子供が先生を描いたと言って持って来た絵を見ると、頬のやけどのところをはっきり描いていた。
私の教え子達を、私の顔のようにさせたくないと思う時、私は声を大きくして戦争反対を叫ばすにはいられない。

国民学校訓導任命書
寄贈:尾形康弘
展示説明文(英語) Shizuko Ogata Then 18
Hirose-kita-machi 1.2km from the hypocenter
Shizuko Ogata was a teacher at Hirose Elementary School.
She was buried under the school building, but was pulled out by the members of a guard unit.
She repeatedly underwent surgery for her serious face injuries, but her face was not restored to its former state.
Wishing for the happiness of her students, she devoted herself to education before dying of cancer at the age of 44.

Shizuko’s personal notes:
Even if the tragedy of pika (meaning ‘the atomic bombing’) fades from people’s memories 20 years, 30 years, or even 100 years from now, it will continue to haunt me forever.
It is because I was branded on the face, which can be said to be a woman’s most important thing.
My life is ruined.
I hate pika. If only there had not been pika.
We were sacrificed for peace...
My student drew a picture of me, which clearly depicted the burn scar on my cheek.
When I wish that nothing will cause my students to have a face like mine, I cannot help but most emphatically cry out against war.

Appointment letter to Shizuko as elementary school teacher
Donated by Yasuhiro Ogata
資料性質 戦中資料

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