識別コード | 9309-0093 |
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資料名 | 辞令書 |
資料名(英語) | |
寄贈者(カナ) | 藤間 昭代(トウマ テルヨ) |
寄贈者(英語) | TOUMA Teruyo |
受入年月日 | 2015/08/05 |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | 122×161 |
寸法(その他) | |
被爆地(旧町名) | |
被爆地(現町名) | |
爆心地からの距離(m) | |
数量 | 1 |
内容 | 合同新聞の記者だった藤間侃治(とうまかんじ)さん(当時33歳)は、妊娠中の妻・幸子(ゆきこ)さん(当時28歳)と4歳を筆頭に、幼い4人の娘たちと離れ、1945年(昭和20年)5月に広島支社に単身赴任、6月に5女が誕生した。8月6日、侃治さんは、支社近くの下宿(爆心地から950m・下流川町)木造2階の物干しで体操中に被爆。一瞬にして家はつぶれ、大けがを負った。瓦礫から這い出した侃治さんは、下敷きになった下宿のおばあさんを助け出した後、重傷にもかかわらず、妻子の待つ岡山県津山市へ帰ろうと歩き続けた。しかし、途中で力尽き、船越町付近で倒れ、救護所に運ばれた。そこで答えた住所氏名から家族のもとに消息が知らされ、8月18日頃、親族の男性陣が救護所に向かった。遺体や重傷者がいっぱいの救護所で、「かんちゃん(侃治さん)いないかー!」と何度も往復していると、「にいさん!」と侃治さんが手を挙げた。抱き起そうとすると、背中が濡れている感触がし、見ると、背中じゅうが、ウジ虫だらけであった。満員の列車で、侃治さんを守りながら必死で連れて帰り、幸子さんらが必死で看病した。幼かった娘たちは、その時のことを、侃治さんの体には、ぐるぐると包帯が巻かれ、とても苦しんでいたと記憶している。8月24日、侃治さんは、妻の幸子さんを枕元に呼び、「今度の戦争でこんなことになったのは、私だけじゃない。悲しまないでくれ。強く生きてくれ。娘たちを良縁につけてくれ。」と遺言を残し、息を引き取った。 これは、1945年(昭和20年)1月1日付の辞令書。合同新聞社が藤間侃治氏の月給を105円とするもの。 |
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展示説明文 | |
展示説明文(英語) | |
資料性質 | 被爆関連資料 |