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被爆資料

識別コード 9309-0087
資料名 辞令書
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 藤間 昭代(トウマ テルヨ)
寄贈者(英語) TOUMA Teruyo
受入年月日 2015/08/05
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 120×158
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 合同新聞の記者だった藤間侃治(とうまかんじ)さん(当時33歳)は、妊娠中の妻・幸子(ゆきこ)さん(当時28歳)と4歳を筆頭に、幼い4人の娘たちと離れ、1945年(昭和20年)5月に広島支社に単身赴任、6月に5女が誕生した。8月6日、侃治さんは、支社近くの下宿(爆心地から950m・下流川町)木造2階の物干しで体操中に被爆。一瞬にして家はつぶれ、大けがを負った。瓦礫から這い出した侃治さんは、下敷きになった下宿のおばあさんを助け出した後、重傷にもかかわらず、妻子の待つ岡山県津山市へ帰ろうと歩き続けた。しかし、途中で力尽き、船越町付近で倒れ、救護所に運ばれた。そこで答えた住所氏名から家族のもとに消息が知らされ、8月18日頃、親族の男性陣が救護所に向かった。遺体や重傷者がいっぱいの救護所で、「かんちゃん(侃治さん)いないかー!」と何度も往復していると、「にいさん!」と侃治さんが手を挙げた。抱き起そうとすると、背中が濡れている感触がし、見ると、背中じゅうが、ウジ虫だらけであった。満員の列車で、侃治さんを守りながら必死で連れて帰り、幸子さんらが必死で看病した。幼かった娘たちは、その時のことを、侃治さんの体には、ぐるぐると包帯が巻かれ、とても苦しんでいたと記憶している。8月24日、侃治さんは、妻の幸子さんを枕元に呼び、「今度の戦争でこんなことになったのは、私だけじゃない。悲しまないでくれ。強く生きてくれ。娘たちを良縁につけてくれ。」と遺言を残し、息を引き取った。
これは、1942年(昭和17年)9月1日付の辞令書。合同新聞社が藤間侃治氏を社員に任ずるもの。
ブロック別
展示説明文
展示説明文(英語)
資料性質 被爆関連資料

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