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被爆資料

識別コード 9309-0083
資料名 任命書
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 松野(旧姓 木村) 妙子(マツノ タエコ )
寄贈者(英語) Taeko Matsuno
受入年月日 2014/02/24
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 191×264
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 木村一美さんが鉄道局から門司鉄道局勤務を命じられたもの。大正11年6月28日付。被爆当時、木村一美さん(当時42歳)は廿日市駅助役として廿日市駅にいた。広島市内に学徒動員されていた次女の幹代さん(当時13歳)が帰らず、一美さんは動員先から帰ってきた長女の妙子さん(当時16歳)と共に捜索に向かった。途中、二手に別れて捜索を続け、己斐国民学校に幹代さんがいるという知らせを受けた一美さんは水飲み場で幹代さんを発見し、担架に乗せて廿日市の家に帰った。しかし、全身に大やけどを負っていた幹代さんは、翌7日明け方亡くなった。その後、市内を歩き回った影響であろうか、一美さんの体に異変が起こった。それまでしたこともなかった下痢が続き、高熱を発し、喘息が出て1966年(昭和41年)に亡くなるまで体調がすぐれない日が続いた。
ブロック別
展示説明文 任命書
寄贈/松野 妙子[マツノ タエコ]
木村一美[キムラ カズミ]さんが鉄道局から門司鉄道局勤務を命じられたときのものです。1922(大正11)年6月28日付。被爆時、木村一美さん(当時42歳)は廿日市[ハツカイチ]駅にいました。一美さんは、広島市内に学徒動員されていた二女の幹代[ミキヨ]さん(当時13歳)の捜索に向かい、己斐[コイ]国民学校の水飲み場で幹代さんを発見し家に連れ帰りました。しかし、全身に大やけどを負っていた幹代さんは、翌7日明け方に亡くなりました。一美さんは、市内を歩き回った影響でしょうか、それまでしたこともなかった下痢が続き、高熱を発症しました。その後1966(昭和41)年に亡くなるまで体調がすぐれない日が続きました。
展示説明文(英語) Appointment Letter
Donated by Taeko Matsuno
Kazumi Kimura received this letter from the Railway Bureau, dated June 28, 1922, appointing him to the Railway Bureau office in Moji. At the time of the bombing, Kazumi (then, 42) was at Hatsukaichi Station. He went into the city to find his second daughter, Mikiyo (then, 13) who had been mobilized within the city, and found her near a drinking fountain at Koi Elementary School. He took her home, but she was covered in burns and died around dawn the next morning on the 7th. Perhaps as a result of walking around the city, Kazumi experienced diarrhea and fever such that he never had in his life. He continued to be in bad health until his death in 1966.
資料性質 戦前資料

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