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トップページ被爆資料修了証書(白島国民学校 昭和19年3月)

被爆資料

識別コード 9308-0006
資料名 修了証書(白島国民学校 昭和19年3月)
資料名(英語) Completion certificate
寄贈者(カナ) 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ)
寄贈者(英語) Seigo Nishioka
受入年月日 1998/01/20
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 360×255
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 白島国民学校の1944(昭和19)年3月付修了書。被爆の約10日前に、西白島町の自宅から最低限の荷物を除いて田舎に疎開させたものの一つ。
県立広島工業学校1年生の西岡誠吾さん(当時13歳)は、原爆投下当日、たまたま体調不良で建物疎開作業に行けず、学校内で被爆した。校門を入り、奉安殿に向かって最敬礼をし、数歩歩いた時のことだった。強烈な熱線を受け、思わず身を縮め、足踏みをしながら「アツイ、アツイ」と叫んだ。同時に爆風に20~30m飛ばされ、校舎の下敷きになった。意識を取り戻した時には周りは真っ暗で、腰から下は何かに挟まれて動くことができなかった。大声で助けを求め、三度目でようやく助け出されたが、顔や手にはやけどを負い、足にも傷を負っていた。水を求めて校門を出ると、避難する人々がたくさん歩いていたが、誰も皆わが身のことで精一杯だった。
不安な気持ちで校門前の川土手に茫然と座っていたところ、二人の上級生が「一緒に逃げよう」と肩を貸してくれた。避難する人々の列に加わり、川土手を南に向かって歩いた。側の川には力尽きた人々が次々に流されていたが、もうけが人や亡くなった人を見ても驚かなくなっていた。
御幸橋西詰までたどり着いたところで上級生と別れた。市内は大火災で、市内の自宅へ帰る事はできぬ、と言われ、避難する人の列に入って、南の方へ歩き、広陵中学校の救護所へたどり着いた。夜中に朝持って出かけた弁当を食べながら、母の安否が気になり涙が出た。翌日に暁部隊の救護所へ移動、8月9日には坂町の横浜国民学校へ移動した。部屋には被災者がぎっしりと詰め込まれ、次々と息を引き取っていた。苦しむ人、家族を呼ぶ人、発狂する人、それは生き地獄だった。「棺桶もないから、山積みにして遺体を焼こう」と話している救援隊の声が聞こえ、自分もこのまま逝ってしまったら、誰にも看取られず山にして焼かれるのかと思うと不安になった。顔にはウジ虫が沢山わき、目と口は化膿して寝ている時に「かさぶた」になり、目を開いたり口を開いた時はそれがちぎれて血が出た。
8月15日、杖をつきながらもようやく歩けるようになり、親戚のある生口島へ一人向かった。
坂駅前で、旧知の母子に出会い、家族の無事を聞き安心した。12時間かかってようやく親戚宅へたどり着いた。玄関で、「こんばんは、こんばんは」と声をかけると、中から出てきた親戚が「キャーッ」と叫び、皆のいる部屋へ行ってしまった。学校で、一年生は全滅だと言われ、誠吾さんは死んでしまったのだろうと、親戚が集まって葬式の相談をしているところだったのだ。誠吾さんは、そこで手厚い看護を受け、2カ月を過ぎたころからだんだん回復し、12月頃から再び学校に行くことができるようになった。担任の先生は「生きていたのか」と涙を浮かべて喜んでくれたが、「建物疎開に行った者はみんな死んでしまった」と言われ愕然とした。
ブロック別
展示説明文
展示説明文(英語)
資料性質 戦中資料

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