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被爆資料

識別コード 9306-0138
資料名 感謝状
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 並木(旧姓:吉田)佳世子(ナミキ(ヨシダ)カヨコ)
寄贈者(英語) NAMIKI Kayoko (YOSHIDA)
受入年月日 2014/10/28
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 357×250
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 1945年(昭和20年)8月6日の朝、舟入川口町にあった吉田家の自宅には、父の菊三さん(当時47歳)、長女の佳世子さん(当時14歳)、三女(当時6歳)がいた。広島市立第一高等女学校生徒だった佳世子さんの動員先の工場は、たまたま電休日だった。母のはるえさん(当時38歳)は雑魚場町の建物疎開作業に出かけていた。
ピカッと光ったかと思うと、縁側で朝食をつくっていた佳世子さんは崩れた家屋の下敷きになった。しばらくして光が見えたと思うと、瓦礫の中から、父の菊三さんが「しっかりしろ」と引っぱってくれた。佳世子さんには、頭から右腕にかけて20数か所のガラスが食い込んでいた。
その後、父の菊三さんは家財を運び出すため自宅に残り、負傷していた佳世子さんは、同じく怪我をして血だらけになった妹を背負い避難した。その間に、母のはるえさんが、頬や腕に火傷をして帰ってきた。はるえさんは佳世子さん達が避難したことを知ると火傷の身体で捜しに行き、とうとう知人宅で倒れたが、その日の夜にはなんとか家族4人で再会することができた。
自宅は佳世子さん達が避難している間に焼失したため、夜は父の菊三さんが畑の中につくった仮小屋の中で寝起きした。母のはるえさんの火傷は、油を塗ってもなかなか治らなかったが、それでもふらふらしながらも、鉄かぶとでさつまいもの葉を茹でたりして食事を作っていた。しかし10日ほどすると握っただけでごっそり髪の毛が抜けるようになり、紫斑が出て、起き上がるのも苦しがるようになった。菊三さんと佳世子さんは、はるえさんを診てもらうため、病院や救護所を訪ね歩き、無理やり焼け残った江波国民学校に運び込んだが、とうとう27日の午後8時、はるえさんはあっちが向きたい、こっちへ向けてと、身の置き所もないくらい苦しみだし、下顎を上下に激しく喘ぎ、亡くなった。翌日、夜明けを待って、菊三さんと佳世子さんは、江波の射撃場ではるえさんの亡骸を茶毘に付した。
新生学園にハーモニカを送った佳世子さんへ贈られた感謝状。1951年(昭和26年)6月1日付。新生学園は、原爆孤児等収容所として1945年(昭和20年)10月に基町に開所した。
ブロック別
展示説明文
展示説明文(英語)
資料性質 戦後資料

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