内容 |
中村容子さん(当時12歳)は、広島市立第一高等女学校1年生で、動員学徒として木挽町で建物疎開作業中に被爆。高田郡井原村に疎開していた母のキヨコさん(当時39歳)は、娘の容子さんと、市内の自宅に残っていた夫の磨採さん(当時41歳)を捜して、8月7日に入市した。頭部に大けがを負っていた磨採さんと、8日に鯛尾の救護所で再会し、磨採さんを介抱しながら10日に疎開先に戻ったキヨコさんは、12日頃、容子さんを捜して再び市内へ向かい捜索を続けたが、どうしてもその行方は分からなかった。後日、建物疎開作業現場付近の倒壊した土塀の下から発見された、容子さんの防空頭巾と弁当箱が遺品として届けられた。十分な薬もない中、8月21日に磨採さんも亡くなり、戦後、女手一つで5人の子どもを育てたキヨコさんは、亡くなるまで原爆の話はほとんどしなかった。これらは、キヨコさんが昭和49年(1974年)に亡くなるまで、容子さんの形見として蔵に入れて大切に保管していたもので、その後は今日まで彰宏さんが大切に保管してきた。これは、年間の操行善良学業優秀且つ皆勤を褒賞するもの。昭和16年3月28日付け。千田尋常小学校尋常科2年時のもの。 |