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被爆資料

識別コード 9303-0039
資料名 教育職員検定願
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 尾形 康弘(オガタ ヤスヒロ)
寄贈者(英語) OGATA Yasuhiro
受入年月日 2020/11/14
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 179×259
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 寄贈者の伯母・尾形靜子(おがた しずこ)さんのもの。1965年(昭和40年)7月3日に靜子さんから広島県知事と広島県教育委員会宛。幼稚園教諭二級普通免許状の授与を求めたもの。
広瀬国民学校の教員だった靜子さん(当時18歳)は学校で被爆した。校舎の下敷きになり全身に傷を負ったが、何とか抜け出すことができた。その後、火災から逃れるため、学校の裏の天満川へ向かった。多くの人が川の中に入り、木につかまりながら対岸の中広町方面へ渡っていく中で、靜子さんは出血が多く、対岸も炎に包まれていたため、避難することが出来なかった。6日は傷を負った同僚の教員とともに学校近くの天満川の河原で一夜を明かした。
翌7日の昼前ごろ、靜子さんと靜子さんの母親のヤエノさん(当時41歳)を捜して市内に入った父親の亀(すすむ)さん(当時48歳)と再会。大八車に乗せられ、疎開していた長束のヤエノさんの実家に戻った。
靜子さんは全身が泥と血にまみれ、特に顔の傷がひどかった。傷口にガラスの破片と砂が入り、血が固まって化膿しかけていた。治療のため近所の医師を訪れたが、手の施しようがなく、傷口を消毒するのみだった。一週間ほど高熱で苦しみ、家族が懸命に看病したが薬もなく、傷口を乾かすために歯磨き粉を付けたり、やけどに良いと聞いて桐の実を黒く焼いたものを油でといて付けたりした。月日が経過しても全身の傷はなかなか治らず、傷口は膿み、出血した。やがて髪の毛が抜け、体中にはしかのように斑点が現れた。
翌年には広島逓信病院で何度も手術を受けたが傷は元のようには治らなかった。教員を辞めようと考えたが、周囲に説得されて1947年(昭和22年)1月から本川国民学校に勤務。原爆で母親を失った悲しみや傷を負った辛さを抱えながら「二度と子どもたちに戦争の憂き目をみせないように」と子どもたちの幸せを願い、教育に力を注いだ。自身の被爆体験も伝え、44歳の時にがんで亡くなるまで、平和の大切さを訴え続けた。
ブロック別
展示説明文
展示説明文(英語)
資料性質 戦後資料

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