識別コード | 9302-0104 |
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資料名 | 死亡確認証 |
資料名(英語) | |
寄贈者(カナ) | 岸本 良之(キシモト ヨシユキ) |
寄贈者(英語) | KISHIMOTO Yoshiyuki |
受入年月日 | 2020/11/9 |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | 155×250 |
寸法(その他) | |
被爆地(旧町名) | |
被爆地(現町名) | |
爆心地からの距離(m) | |
数量 | 1 |
内容 | 岸本貢さん(当時7歳)の死亡確認証。 貢さんは1945年(昭和20年)の4月から、母・イセコさん(当時33歳)、兄・良之さん(当時9歳)、妹・千穂子さん(当時1歳)とともに県北に縁故疎開していた。夏になり、広島に残っていた父・正登さん(当時37歳)が病気になったため、母と兄妹は見舞がてら広島に戻ることになった。7歳だった貢さんは、置いていかれることになっていたが、「僕も一緒に帰りたい」と泣いて峠まで追いかけてきたため、一緒に帰ることになった。4人は8月5日の夕方に広島駅に帰着。天満町の自宅に戻った。その日の晩は家族5人で夕飯を食べ、翌6日の朝も家族で食卓を囲んだ。朝食の雑炊を食べ終え、貢さんが兄の良之さんと2階に上がったのは8時を過ぎていた。 障子をあけて二人で休んでいる時だった。 原爆で自宅は倒壊、貢さんは倒壊した家の梁に胸を押されていた。 父の正登さんと母のイセコさんはどうにかその梁を除けようとしたが叶わず、そのうち火が回ってきて逃げなくてはいけなくなった。「ミッちゃん、ごめん!」と叫んだイセコさんの声を、良之さんは正登さんの背中で聞いた。 貢さんは、そのまま助けることができなかった。 貢さんの遺骨は数日後、叔母によって避難先にいた家族の元へ届けられた。 近所は一家全滅が多かった。正登さんとイセコさんは「まだ幸運なほうじゃ」と言いながら泣いた。その後、2人が貢さんのことを口にすることはなかった。 |
ブロック別 | |
展示説明文 | |
展示説明文(英語) | |
資料性質 | 被爆関連資料 |