menu

トップページ被爆資料変死者検視調書

被爆資料

識別コード 9302-0082
資料名 変死者検視調書
資料名(英語) Medical Examiner’s Report on a Person Who Died an Unnatural Death
寄贈者(カナ) 山際 節子(ヤマギワ セツコ)
寄贈者(英語) YAMAGIWA Setsuko
受入年月日 2015/11/16
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 178×254
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 被爆当時、山際さんの一家は佐伯郡八幡村へ疎開していた。県庁職員だった父・黨一さん(当時38歳)は、そこから出向先の東千田町の中国地方総監府に通っていた。女学校4年生だった長女の節子さんは、毎朝父と一緒に家を出て、市内の学徒動員先へ通っていた。家族の休日はバラバラで、皆が揃う休日はあまりなかったが、8月5日は珍しく家族が揃っていた。お盆用に、と大切にとってあったもち米でおはぎを作り、一家は楽しく食卓を囲み、食後は黨一さんの吹く尺八にあわせて楽しく歌った。それが家族で過ごした最後の楽しい時間になるなど、知る由もなかった。
翌日、いつものように黨一さんは出かけ、発熱のあった節子さんは休んでいた。「お日様が割れた!」と母・昌子さんの叫び声が聞こえ、見ると広島の方には大きな火柱が上がっていた。
夜になっても黨一さんは帰らず、翌朝節子さんと昌子さんは市内へ向かった。「広島へ行けば父に逢える」と、五感を失ったように黙々と黙ってただ歩いたが、ようやくたどり着いた勤務先でも黨一さんの消息はつかめなかった。張りつめていた気が緩み、ぐにゃりと力の抜けた体をしかりつける様に立ち上がり、足を棒にして捜しまわったが、黨一さんの行方は分からず、翌日からも市内の収容所や遺体を荼毘に付しているところを訪ね歩いたが、黨一さんは見つからなかった。
被爆前、黨一さんは自転車を五日市駅にとめていた。節子さんは、今日こそは、今日こそは、父が帰っているかもしれないと、毎日その自転車を見ていたが、いつまでも自転車はとまったままだった。
この変死者検視調書は、昭和20年10月付。「遺体を妻に引き渡した」と記述があるが、実際には黨一さんの行方は今も分からないまま。戦後、小学校の教員になった節子さんは、母を支え、一家の大黒柱として幼い妹弟たちを抱え一生懸命生きてきた。節子さんら4人の姉弟は、文武に秀でた父の誇りと面影を胸に、ずっと父に恥じない生き方をしようと一生懸命に生きて来たのだった。
ブロック別
展示説明文
展示説明文(英語)
資料性質 被爆関連資料

戻る

Page Top