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被爆資料

識別コード 9302-0081
資料名 死亡診断書
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 藤間 昭代(トウマ テルヨ)
寄贈者(英語) TOUMA Teruyo
受入年月日 2015/08/05
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 174×240
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 合同新聞の記者だった藤間侃治(とうまかんじ)さん(当時33歳)は、妊娠中の妻・幸子(ゆきこ)さん(当時28歳)と4歳を筆頭に、幼い4人の娘たちと離れ、1945年(昭和20年)5月に広島支社に単身赴任、6月に5女が誕生した。8月6日、侃治さんは、支社近くの下宿(爆心地から950m・下流川町)木造2階の物干しで体操中に被爆。一瞬にして家はつぶれ、大けがを負った。瓦礫から這い出した侃治さんは、下敷きになった下宿のおばあさんを助け出した後、重傷にもかかわらず、妻子の待つ岡山県津山市へ帰ろうと歩き続けた。しかし、途中で力尽き、船越町付近で倒れ、救護所に運ばれた。そこで答えた住所氏名から家族のもとに消息が知らされ、8月18日頃、親族の男性陣が救護所に向かった。遺体や重傷者がいっぱいの救護所で、「かんちゃん(侃治さん)いないかー!」と何度も往復していると、「にいさん!」と侃治さんが手を挙げた。抱き起そうとすると、背中が濡れている感触がし、見ると、背中じゅうが、ウジ虫だらけであった。満員の列車で、侃治さんを守りながら必死で連れて帰り、幸子さんらが必死で看病した。幼かった娘たちは、その時のことを、侃治さんの体には、ぐるぐると包帯が巻かれ、とても苦しんでいたと記憶している。8月24日、侃治さんは、妻の幸子さんを枕元に呼び、「今度の戦争でこんなことになったのは、私だけじゃない。悲しまないでくれ。強く生きてくれ。娘たちを良縁につけてくれ。」と遺言を残し、息を引き取った。
これは、藤間侃治氏の死亡診断書。1945年(昭和20年)8月25日付。
ブロック別
展示説明文 死亡診断書
藤間昭代寄贈(きぞう)
単身(たんしん)赴任(ふにん)中の藤間侃治さん(当時33歳(さい))は下宿先で被爆(ひばく)して大けがを負い、救護所(きゅうごしょ)に運ばれました。
8月18日頃(ころ)、知らせを受けた親族が、侃治さんを発見し、妻(つま)と幼(おさな)い娘(むすめ)たちが待つ岡山県津山市に連(つ)れて帰りました。
8月24日、侃治さんは妻に「今度の戦争(せんそう)でこんなことになったのは、私だけじゃない。悲しまないでくれ。強く生きてくれ。」と言い残(のこ)し、息を引き取りました。
(2019年本館常設展示)
展示説明文(英語) Death certificate
Donated by Teruyo Toma
Kanji Toma (33)was in his lodging and suffered severe injuries by the bombing. He was carried to a relief station. Learning his whereabouts, his relatives found Kanji on around August 18 and brought him home in Tsuyama City, Okayama Pref., where his wife and little daughters were waithing him.
On August 24, Kanji called his wife to his bedside and said, “I’m not the only one who suffered from this war. Don’t be sad. Be strong.” Then he passed away.
(2019 Main Building)
資料性質 被爆関連資料

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