内容 |
武内(たけうち)さん一家は、家族5人で、南竹屋町(爆心地から約1700m)で暮らしていた。1945年8月6日の朝、父・菊松(きくまつ)さんは自転車で食料調達に、母・ヒサヨさんは、勤労奉仕で町内の建物疎開作業に出かけた。爆心地から4キロ離れた勤務先で被爆した長女・英子(はなこ)さんは、その日の夕方に、焼け野原となった市内を通って、自宅まで戻ったが、暮らしていた家は全焼し、家族の姿はなかった。自宅で被爆し、家の下敷きになった二女・恵美子(えみこ)さんは、奇跡的に軽傷で、道路まで這い出し、知人宅に避難。そこで、英子さんと再会した。二人は、家族の行方を捜索、立札で、菊松さんの死と、二男・祥三(しょうぞう)さんの無事を知った。菊松さんは、天満橋で被爆。全身やけどを負い、己斐の親族宅まで逃げたが、翌日に亡くなっていた。その後、似島に収容されていたヒサヨさんを発見。ヒサヨさんは、足の踏み場も無い収容所の床に、瀕死の状態で寝かされていた。大やけどを負い、家族でも見分けもつかない姿であった。ヒサヨさんは1年以上かかって回復したが、体にはケロイドが残った。罹災証明書は英子さんが比治山橋のたもとで取得したもの。英子さん他3名宛。 |