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トップページ被爆資料遺言状(封筒)

被爆資料

識別コード 9299-0387
資料名 遺言状(封筒)
資料名(英語) Envelope with “Will" written on it
寄贈者(カナ) 向井 弘子(ムカイ ヒロコ)
寄贈者(英語) MUKAI Hiroko
受入年月日 2019/6/18
寸法(幅×高さ×奥行)(mm)
寸法(その他) 封筒:78×290、用紙:180×253
被爆地(旧町名) 大手町八丁目
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 大元隆一(おおもと りゅういち)さん(当時17歳)は、大手町八丁目にあった広島電機通信工事局線路課の事務室で勤務中に被爆。木造二階建ての建物は倒れ、隆一さんは負傷したものの脱出し、吉島飛行場へ避難した。飛行場で応急手当を受け、翌7日の午前3時頃、安佐郡可部町の自宅へ戻るため杖にすがりながら歩いて横川橋まで来たところでトラックに乗せてもらい、可部警察署まで帰り着いた。警察署でも治療を受け、その後歩いて自宅へ戻った。
一方、父親の春一(しゅんいち)さんは、被爆当日、自宅に戻ってこない息子を捜し、自転車で広島市内へ向かったが、横川から先は火の勢いが強く進むことができなかった。
翌7日朝には、母親のシマコさんが隆一さんと一緒に仕事をしていた人から隆一さんが吉島の飛行場に収容されていることを聞き、歩いて広島市内へ向かった。
横川を通り、吉島の飛行場に到着したが、隆一さんを見つけることはできなかった。シマコさんが夜遅く家に帰ると、隆一さんは既に自宅に戻っており、死んだように眠っていた。
8日の朝、目覚めた隆一さんは、シマコさんに自宅まで戻ってくる様子を語った。隆一さんは、頭から耳にかけて包帯をしており、包帯の上から血がにじんでいた。自宅近くの医師に治療を依頼したが、近所にも多くの負傷者が収容され一人の医師がつきっきりで治療をすることは難しく、入れ替わりで3人の医師に診てもらった。看護師さんにも来てもらった。自宅の2階で隆一さんの治療が行われた。包帯をとると、頭の上から耳元まで裂け、耳たぶはなかった。背中には隙間のないほどガラス片が突き刺さり、シマコさんが毎日抜いていた。自分の傷の具合が気になり、隆一さんが「鏡を持って来て」と頼むと、シマコさんはひどい傷の様子を見せると本人の気が滅入ると思い、理由を付けて鏡を持って来ることはなかった。
8月15日に終戦を伝える放送をラジオで聞くと、隆一さんは気落ちした様子で、それ以降は高熱が続き、8月22日に亡くなった。
直前に隆一さんはシマコさんに「わしは死んでも母さんのそばで、母さんを守るけえ、元気でやってえや」と伝え亡くなった。
遺言状と書かれた封筒は、隆一さんのもの。封筒の中身は「点呼ニ出ズル心得竝ニ奉公袋内用品」の用紙のみが入っていた。遺書はなかった。当日隆一さんが持っていたのか、自宅に置いてあったものかは分からない。シマコさんは遺書と思って大切に保管していた。
ブロック別 国泰寺・千田地区
展示説明文 「遺言状」と書いた封筒
寄贈/向井弘子
大元隆一さん(当時17歳)は、爆心地から約900メートルの勤務先の事務所で被爆しました。倒壊した建物から脱出、負傷しながらも翌日郊外の自宅へたどり着きました。高熱が続いた隆一さんは、8月22日、母・シマコさん(当時42歳)の必死の看病むなしく、息を引き取りました。
「遺言状」と書かれた封筒には遺言状はなく、「点呼ニ出ズル心得並ニ奉公袋内用品」という紙だけが入っていました。

<母・シマコさんの証言より(「原子雲の下に生き続けて」より一部抜粋)>
8日の朝、やっと話ができました。
「かあちゃん、横川まで帰るのがやねこかったよ。杖をついて歩いたんじゃが、ゲートルを巻きかえるのに、一時間じゃ、僕、巻けんかったんじゃけ」
隆一は、頭から、耳にかけて包帯をしていました。その上から血が出ていました。包帯を取ると、頭の上から耳もとまで裂けて耳がなくなっていました。包帯がふくれているので、ピンセットで引っ張るとガラスの破片でした。それが、背中には、空間のない程立っているのです。毎日、十本も二十本も抜きました。
「お母さん、傷はどがいなかいの」と言うので、
「お医者さんが、ええがにやってじゃけえ、治るよ」と言いました。
「これでも、お母さん。わしが年をとったら、嫁さんに来てくれる人があろうかの。お母さん、鏡を持ってきて見せてえや。」と言いますけえ、
「すまんのう。鏡が水害で流れてないなったんよ」と言うたんです。その時、見せる気がしませんよ、親として…。
死ぬ寸前、息子は、
「わしは死んでも母さんのそばで、母さんを守るけえ、元気でやってえや」と言いました。
あの当時のことを忘れようと思っても心が静かになったら、目の前に出てきます。
「隆ちゃん、あんたはなして死んだんかいのう。あんたが守ってくれるけえ、わしゃあ、元気でおれるんじゃ」
毎日一回は泣かずにはおれません。

「点呼ニ出ズル心得竝ニ奉公袋内用品」。「奉公袋内容物」として「七 平常の心掛 イ 遺書(父母妻子宛ノモノ)」という記載がある。
展示説明文(英語) Ryuichi Omoto (then 17) was at his work office about 900 meters from the hypocenter when he was exposed to the atomic bomb. He escaped from the collapsed building and, although injured, was able to get to his home in the suburbs the next day. Ryuichi had a high fever and died on August 22nd, despite his mother, Shimako, trying desperately to care for him.
There was no will in the envelope that was marked “Will." Instead, there was only a sheet of paper that includes hints for responding to roll call and the list of contents of the service bag.

<From the testimony of his mother, Shimako (excerpt from “Living Under the Atomic Cloud")>
He was finally able to talk on the morning of the 8th.
“Mom, it was so difficult to get back to Yokogawa. I was walking with a cane, and I wanted to wrap my gaiters, but even after trying for an hour I couldn't do it."
Ryuichi's head was bandaged down to his ears. Blood had soaked through the bandage. When I removed the bandage, I could see a large wound from the top of his head to where his ear should have been, but his ear was missing. I used tweezers to grab an area where the bandage was bulging, and pulled out a shard of glass. There wasn't an inch of his back that wasn't covered in pieces of glass. I pulled out 10 or 20 every day.
He asked me, “Mom, how bad are my injuries?"
And I said, “The doctor will take care of it, so you'll get better."
And he said, “But, Mom. When I get older, do you think anyone will be my wife? Mom, bring me a mirror so I can see."
And I said, “I'm sorry. We lost the mirror in the flood. We don't have one anymore." As his mother, I couldn't bring myself to show him...
As he was dying, my son said,
“Even if I die, I'll stay by your side and protect you, Mom, so please stay well."
Even if I try to forget about those days, I can still see him in quiet moments when my mind is still.
“Ryuichi, why did you die? I'm fine, because I know you are protecting me."
I cannot help but cry for him at least once every day.

Hints for responding to roll call and the list of contents of the service bag. The list says, “7. Always be prepared, B. Farewell note (to father, mother, wife, and children)."
資料性質 被爆関連資料

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