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トップページ被爆資料習字(「無線電信飛行往復」)

被爆資料

識別コード 9299-0341
資料名 習字(「無線電信飛行往復」)
資料名(英語) Calligraphy
寄贈者(カナ) 浜田 平太郎(ハマダ ヘイタロウ)
寄贈者(英語) Heitaro Hamada
受入年月日 2014/9/1
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 245×334
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 寄贈者・浜田平太郎さん(当時15歳)の姉・照代(てるよ)さん(当時21歳)は、猿楽町(現在の紙屋町)の日本興業銀行広島支店(爆心地から約200m)に勤務していました。1945(昭和20)年8月6日、照代さんは、出勤後に被爆。そのまま行方不明となりました。母・かとさん(当時51歳)と平太郎さんは、しらみつぶしに収容所や避難所を廻りましたが、手がかりすらつかむことができませんでした。照代さんの銀行の焼け跡には炭化した性別不明の黒焦げの遺体が7体横たわっていたそうです。平太郎さんによると、かとさんは、最後まで照代さんの死を認めることが出来ませんでした。この習字は、照代さんが尋常高等小学校5年生の時に書いたもので、かとさんが大切に保存していたものです。県立広島第一高等女学校1年生だった妹の孝子さん(当時12歳)も学徒動員先で被爆、7日に亡くなっており、かとさんは二人の娘を原爆で亡くしました。
ブロック別
展示説明文 習字
寄贈/浜田平太郎氏
浜田照代さん(当時21歳) が、小学校5年生の時に書いた書です。
照代さんは、日本興業銀行広島支店(爆心地から約200m)で被爆し、そのまま行方不明となりました。
母のかとさん(当時51歳)と、弟の平太郎さん(当時15歳)は、しらみつぶしに収容所や避難所をまわりましたが、手がかりすらつかむことができませんでした。
銀行の焼け跡には、炭化した性別不明の遺体が7体横たわっていたそうです。しかし、母のかとさんは、最期まで照代さんの死を認めませんでした。それゆえ、照代さんのお葬式は行われていません。
展示説明文(英語) Calligraphy
Donated by Heitaro Hamada
These sheets of Japanese calligraphy were created by Teruyo Hamada (then, 21) when she was in the fifth grade at elementary school.
Teruyo was exposed to the atomic bomb at Hiroshima Branch of the Industrial Bank of Japan, (about 200 meters from the hypocenter), and went missing. Her mother Kato (then, 51) and brother Heitaro (then, 15) searched every relief station and evacuation site for her, but there was no clue on how to find her.
At the burnt-out ruins of the bank, there were seven carbonized dead bodies whose genders were indeterminable. Kato had never accepted Teruyo's death until her last breath. As a result, no funeral was ever held for Teruyo.
資料性質 被爆関連資料

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