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被爆資料

識別コード 9299-0142
資料名 被爆翌年に届けられた写経
資料名(英語) Hand-copied sutra brought in the year after the A-bombing
寄贈者(カナ) 茶本 裕里(チャモト ユリ)
寄贈者(英語) Yuri Chamoto
受入年月日 2009/08/24
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 85×255
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 寄贈者の弟・三重野杜夫さん(当時12歳)は、県立広島第一中学校1年生だった。動員学徒として爆心地から約1,200メートルの雑魚場町(現在の国泰寺町)の建物疎開作業現場で被爆した。父・定夫さんは、杜夫さんを捜すため昼前に市中心部へ向かったが猛火のため中心部へ入ることは出来ず、午後4時になって、母の松代さんとともに再び市内へ向かい、学校にたどり着いた。しかし、大やけどを負って倒れている生徒たちの中に杜夫さんの姿はどこにもなかった。寄贈者が在学していた県立広島第一高等女学校教諭の木村二郎氏は、8月7日、比治山下付近で生徒の捜索中、火傷を負っている中学生を見かけた。名前をたずねると「三重野」と答えたため、教え子の弟であることが分かったが、公務でその場を離れられなかった木村氏は、杜夫さんの所在をその自宅へしらせるよう人に頼んだ。報せを受けた家族は、8月9日、杜夫さんのもとへと急ぎ、途中、木村氏のところへ立ち寄った。木村氏は、杜夫さんを家族の元へ連れて行ってあげられなかったと泣いて詫びてくれたが、どうしようもなかったのは痛いほど分かり、母の松代さんはその心がうれしかった。その後、来る日も来る日も家族は杜夫さんを捜し歩いたが、とうとう杜夫さんの行方は分からないままだった。これは、被爆の翌年の1946(昭和21)年8月6日、木村氏が届けてくれた写経で、今日まで大切に保管していた。
ブロック別
展示説明文 寄贈者の弟・三重野杜夫さん(当時12歳)は、県立広島第一中学校の1年生で、動員学徒として雑魚場町(現在の国泰寺町)で建物疎開作業中(*注)に被爆。やけどを負って倒れていたところを、姉の裕里さんが在学していた県立広島第一高等女学校教諭で、生徒を捜索していた木村二郎さんに発見されました。公務でその場を離れられなかった木村さんは、近くにいた人に杜夫さんの所在を家族へ知らせるよう伝言を託し、知らせを受けた家族は杜夫さんの元へと急ぎました。途中、木村さんのところへ立ち寄ると、木村さんは杜夫さんを家族のところへ連れて行ってあげられなかったと泣いて詫びました。どうしようもなかったことは痛いほど分かり、母・松代さんはその心を嬉しく思いました。その後毎日、家族は杜夫さんを捜し歩きましたが、とうとう行方は分かりませんでした。これは、木村さんが杜夫さんの死を悼んでしたためた写経で、被爆翌年の1946年(昭和21年)8月6日、木村さんが家族に届けたものです。
*建物疎開作業:空襲に備え防火地帯などをつくるため、市内各所で指定された区域内にある建物を撤去する作業。8月6日も、地区特設警備隊や国民義勇隊、動員学徒が、朝早くから作業に取り掛かっていた。
展示説明文(英語) Morio Mieno, the donor's younger brother (then, 12), a first-year student of First Hiroshima Prefectural Junior High School, was exposed to the bomb during building demolition work (*note) as a mobilized student in Zakoba-cho (now, Kokutaiji-machi). Morio, while suffering from serious burn injuries, was found lying on the ground by Jiro Kimura, a teacher at First Hiroshima Prefectural Girls High School, where Morio's elder sister Yuri was enrolled. Kimura, who couldn't leave his station because he was on official duties, asked a nearby person to let Morio's family know of Morio's whereabouts. On receiving a message from Kimura, Morio's family rushed to where the boy was. On their way there, they stopped by Kimura's station and Kimura tearfully apologized to them for not having taken Morio. Morio's mother Matsuyo was fully aware of Kimura having had no choice, and was delighted to hear Kimura's words. The family members walked around the city for days searching for him, but never found him. This is a hand-copied sutra Kimura made to mourn Morio's death. This sutra was brought by Kimura to Morio's family on August 6, 1946, the year after the A-bombing.
*Building demolition work: Work to demolish buildings within designated areas in the city in order to create a firebreak in preparation for air raids. Also on August 6, the special district guard corps, volunteer citizen corps, and mobilized students were engaged in works from early morning.
資料性質 被爆関連資料

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