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被爆資料

識別コード 9206-0161
資料名 原子爆弾による症状を記した記録
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 岩崎 肇(イワサキ ハジメ)
寄贈者(英語) IWASAKI Hajime
受入年月日 2013/11/26
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 332×242
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 寄贈者の父で、日本医療団畑賀病院の医師だった岩崎祐治さん(当時42歳)が記録したもの。原爆により、火傷や外傷を受けた11名に現れた症状と経過について記している。祐治さんは、8月6日、続々と畑賀村(現在の安芸区畑賀町)にやってきた負傷者の治療を行った。畑賀病院では、負傷者は入院と外来に区分され、重病人は畑賀国民学校に収容し、手術は畑賀病院で行われた。病院と学校の往復で、なかなか家に帰ることができなかった祐治さんのために、祐治さんの子どもたちは毎日交代でお弁当を届けた。生前の祐治さんは、当時の事について多くを語ることはなかったが「ベットが足りず国民学校の廊下に負傷者を寝かせて、薬品も足りず酷かった。あっちもこっちも死んでいった。」と話していたという。
ブロック別
展示説明文 原子爆弾による症状を記した記録
寄贈/岩崎肇[イワサキ ハジメ]
寄贈者の父で畑賀[ハタカ]病院の医師だった岩崎祐治[スケハル]さん(当時42歳)が記録したものです。原爆により、やけどや外傷を受けた11名に現れた症状と経過について記しています。祐治さんは、8月6日、畑賀村[ハタカムラ](現在の安芸区畑賀町[ハタカチョウ])に続々とやってきた負傷者の治療を行いました。畑賀病院では、負傷者は入院と外来に区分され、重病人は畑賀国民学校に収容し、手術は畑賀病院で行われました。病院と学校の往復で、なかなか家に帰ることができなかった祐治さんのために、祐治さんの子どもたちは毎日交代でお弁当を届けたそうです。生前の祐治さんは、当時の事について多くを語ることはありませんでしたが、「ベッドが足りず国民学校の廊下に負傷者を寝かせて、薬品も足りず酷かった。あっちもこっちも死んでいった。」と話していました。
展示説明文(英語) Record of symptoms caused by the atomic bombing
Donated by Hajime Iwasaki
Sukeharu Iwasaki (then, 42), the donor’s father, was a doctor at Hataka Hospital who kept this record of the symptoms and progress shown by 11 people who had suffered burns and external injuries from the atomic bombing. Sukeharu was in Hataka Village (now, Hataka-cho, Aki-ku) on August 6 and treated the injured who arrived one after another at the hospital. At Hataka Hospital, the injured were either admitted to the hospital or treated as outpatients. The seriously injured were cared for at Hataka Elementary School and surgeries were performed at the hospital. Making round trips between the hospital and school prevented Sukeharu from returning home, and it is said that his children took turns bringing him lunch every day. During his lifetime, Sukeharu rarely spoke of those days, but he did say that without enough beds the injured had to sleep in the hallways at the school and the lack of medicine made it pretty rough. He said that people were dying left and right.
資料性質 戦後資料

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