識別コード | 9203-0006 |
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資料名 | 生徒手帳 |
資料名(英語) | |
寄贈者(カナ) | 河本 来三郎(カワモト ライサブロウ) |
寄贈者(英語) | KAWAMOTO Raisaburo |
受入年月日 | |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | 90×5×120 |
寸法(その他) | |
被爆地(旧町名) | 中島新町 |
被爆地(現町名) | 中島町 |
爆心地からの距離(m) | 700 |
数量 | 1 |
内容 | 流田浩司さん(当時13歳)は、県立広島工業学校1年生。学徒動員先の中島新町の建物疎開作業現場で被爆。現在も行方不明のまま。 浩司さんが当日来ていた学生服が、被爆3日目に建物疎開作業現場近くの川土手で見つけられ、学校長宅へ届けられた。 被爆後、安佐郡の自宅に浩司さんは帰らず、広島市内は大変な状況になっていると聞いた父・来三郎さん(当時44歳)と母・萩乃さんは市内へ捜索に向かった。真っ黒に焦げた遺体を、「ごめんなさい…」と言いながらひっくり返しては必死に捜索を続けたが、どうしても浩司さんは見つからなかった。途中、「助けて下さい…」と懇願する人もいたが、そんな人が多すぎてどうすることもできず、すまない気持ちでいっぱいだった、と後に来三郎さんは語った。 8月6日の朝、いつもなら6時には自転車で家を出る浩司さんが、家で飼っていた猫の頭をいつまでも撫でて、出かけたがらなかった。来三郎さんは、そんな浩司さんに「はよう行かんと遅れるで」と、追い立てるように言って出かけさせたことを生涯悔いた。 戦後、来三郎さんと萩乃さんは、毎年、県立広島工業学校の慰霊碑などへのお参りを欠かさず、来三郎さんたちが亡くなった後は、浩司さんの兄である武彦さん夫妻が長くお参りを続けた。 |
ブロック別 | 吉島・舟入・観音地区 |
展示説明文 | |
展示説明文(英語) | |
資料性質 |