識別コード | 9201-0158 |
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資料名 | 日記 |
資料名(英語) | Diary |
寄贈者(カナ) | 藤本 忠雄(フジモト タダオ) |
寄贈者(英語) | FUJIMOTO Tadao |
受入年月日 | 2014/09/13 |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | 149×209 |
寸法(その他) | |
被爆地(旧町名) | |
被爆地(現町名) | |
爆心地からの距離(m) | |
数量 | 1 |
内容 | 吉島の中国塗料の工務員だった藤本忠雄さん(当時16歳)は、日中は工場で働き、終業後は県立広島第二工業学校電気科(夜間)へ通っていた。1945年(昭和20年)当時には工場はほぼ五日市へ疎開移転しており、仕事はなかったが、学校があり、吉島の工場の隣の寮に住んでいた忠雄さんは、そのまま工場の番をする生活をしていた。8月6日の朝、工場の第二研究室の窓から外を見ていた忠雄さんは、強い光を目にし、とっさにコンクリートの実験台の下に隠れたが、頭を負傷した。壁や天井は崩れ落ち、部屋中真っ黒な煙で動くことができなかったが、しばらくして辺りが明るくなったため木材をかきわけ、ようやく外に這い出ることができた忠雄さんは、たまたま出会った友人2人と日赤へ向かい、入口に出されていた塗り薬で自分たちで消毒をした。その晩は、工場の仲間たちと吉島の飛行場に避難し過ごした。数日して、工場の移転先だった五日市に引き揚げ、他の社員や負傷者と雑魚寝の日々を1~2か月送った。闇市に行ったことなど、昭和21年1月1日~昭和21年4月24日までの日々が綴られている。 |
ブロック別 | |
展示説明文 | |
展示説明文(英語) | |
資料性質 | 戦後資料 |