内容 |
吉島の中国塗料の工務員だった藤本忠雄さん(当時16歳)は、日中は工場で働き、終業後は県立広島第二工業学校電気科(夜間)へ通っていた。1945年(昭和20年)当時には工場はほぼ五日市へ疎開移転しており、仕事はなかったが、学校があり、吉島の工場の隣の寮に住んでいた忠雄さんは、そのまま工場の番をする生活をしていた。8月6日の朝、工場の第二研究室の窓から外を見ていた忠雄さんは、強い光を目にし、とっさにコンクリートの実験台の下に隠れたが、頭を負傷した。壁や天井は崩れ落ち、部屋中真っ黒な煙で動くことができなかったが、しばらくして辺りが明るくなったため木材をかきわけ、ようやく外に這い出ることができた忠雄さんは、たまたま出会った友人2人と日赤へ向かい、入口に出されていた塗り薬で自分たちで消毒をした。その晩は、工場の仲間たちと吉島の飛行場に避難し過ごした。数日して、工場の移転先だった五日市に引き揚げ、他の社員や負傷者と雑魚寝の日々を1~2か月送った。この日記は、寮の焼け跡から見つけたもの。宣伝ビラがまかれたこと、1週間かけて防空壕を掘ったこと、警戒警報や空襲警報が頻繁に起こっている様子など、昭和20年4月27日~昭和20年7月23日までの日々が綴られている。 |