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トップページ被爆資料日記の一部

被爆資料

識別コード 9201-0073
資料名 日記の一部
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 亀井 芳子(カメイ ヨシコ)
寄贈者(英語) Yoshiko Kamei
受入年月日 2004/09/21
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 206×140
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 広島女子高等師範学校附属山中高等女学校2年6組だった冨子さん(当時15歳)は、8月6日宮島町の自宅から学徒動員先である雑魚場町(現在の国泰寺町)の建物疎開作業現場へ向かった。家族は、前日の作業で、くぎを踏んで足に怪我をしていた冨子さんに休むようにすすめたが、級長なのでいかなくてはいけないとでかけ、爆心地から1200mの作業現場で被爆した。母久代さんと姉の芳子さんは翌7日朝から冨子さんを捜すために入市し、山中高女の印を見つけては冨子さんの姿を求め市内中を捜し回った。やっとのことで金輪島に運ばれたことが判明、すぐに金輪島に行き、被災者たちが収容されていた兵舎で名前や番号を叫んで回った。全身に大火傷を負い、顔がはれ上がっていたが、直感的に後姿で冨子さんを発見した。久代さんらは懸命の看病を続けたが、9日朝、冨子さんは亡くなった。久代さんと芳子さんは10日丘の上で冨子さんの遺体を火葬にし、遺骨を持ち帰った。この日記は1945(昭和20)年7月22日から7月24日までのもの。最後の日記となった。
ブロック別
展示説明文 2年6組の亀井冨子さん(当時13歳)は、前日の建物疎開作業で足にけがをしていましたが、級長の責任を果たすため、8月6日も作業に行き、被爆しました。母の久代さんと姉の芳子さんは、翌7日朝から入市、金輪島の収容所で冨子さんを発見しました。冨子さんは、全身に大やけどを負い、本人と分からないくらい顔がはれ上がっていました。久代さんは懸命の看病を続けましたが、9日朝、冨子さんは亡くなりました。日記は1945(昭和20)年7月22日から24日までのもので、最後の日記となりました。
展示説明文(英語) Tomiko Kamei (then, 13) was in Class 6, second year. She had injured the sole of her foot while working the previous day, but to fulfill her responsibility as class president, she went to the worksite on August 6 and encountered the bomb. Her mother Hisayo and older sister Yoshiko entered the city early on the 7th and eventually found Tomiko in a relief station on Kanawajima Island. Tomiko suffered serious burns over most of her body. Her face was too swollen to recognize. Hisayo nursed her desperately but Tomiko passed away early on the 9th. This diary begins on July 22, 1945. The last entry was the 24th.
資料性質 被爆関連資料

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