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トップページ被爆資料「女学生日記」

被爆資料

識別コード 9201-0032
資料名 「女学生日記」
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 山本 正隆(ヤマモト マサタカ)
寄贈者(英語) Masataka Yamamoto
受入年月日 2004/04/21
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 135×195×20
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 広島女学院専門部3年生の河本明子さんは、動員学徒中に幟町で被爆。ちょうど建物の陰になっていて、幸い大やけどは負わなかったが、爆風で近くのトラックの下へ飛ばされた。明子さんは帰りたい一心で三滝町の自宅をめざし、自宅近くまで帰ったが、力尽きて坂道を登ることができず、うずくまっているところを近所の人に発見された。知らせを受けて驚いた父・源吉さんが駆けつけ、明子さんを背負って自宅に連れ帰った。家族で懸命に看病したが、翌7日明子さんは家族に看取られながら亡くなった。
これらは、自宅に残されていた明子さんの日記。昭和15年1月1日~11月24日。

明子さんの弟・山本正隆さんのお話から
真面目な姉で、よく勉強していました。宿題の手伝いや、書初めの手本を書いてくれました。勉強部屋を持っていて、そこで勉強したりピアノを弾いたりしていた姿を覚えています。聞くともなく聞いていたのでしょう。モーツァルト作曲の「ピアノ・ソナタ ハ長調」など、姉が弾いていたメロディは今でも覚えています。

山本正隆さんの妻・紀美子さんのお話から
昭和37年、婚約が決まり、時々正隆さんの実家に遊びに行っていました。そんな夏の暑い日でした。改まって大切な話があるから、と義父に座るように言われました。そんなことは初めてで、「これは大切な話だ。心して聞かなければ」と真剣に聞きました。それは正隆さんの、原爆で亡くなった姉の話でした。原爆投下の数日前から、義姉は体調を崩して動員を休んでいたそうです。すると、学校の先生から「学徒のリーダーのあなたが休むと士気が下がる」と出勤を促すハガキがきたそうです。8月6日の朝、義母は弁当を作り、義姉は出勤することにしたそうですが、いつもは「行ってきます!」と元気に出かける義姉が、この日に限って台所の上り框に座り込み、「行きたくないねぇ」と珍しく出かけるのを渋ったそうです。義母はそうは言っても弁当も作ったし、先生からハガキも来たのだし、と義姉を送り出したのだそうです。
被爆後、義姉は必死に帰ってきました。自宅近くの坂の下で力尽きてうずくまっているのを知った義父が負って家に連れて帰り、家族で必死に看病しました。前日、近所の人が届けてくれたトマトが家にあり、義姉はそれを欲しがったそうです。亡くなる直前、一口、二口そのトマトを食べて義姉は亡くなったそうです。義父もその話になると涙ぐんで言葉に詰まり、私も言葉がありませんでした。
義両親は、大切な愛娘の最期の話をするのは一度きりだと心に決めていたのでしょう。その後、このような形で義姉の話をすることはありませんでした。結婚前のあの時のただ一度だけ、息子の妻になる私に、大切な愛娘のことを知っていてほしいと改めて話をしてくれたのだと思います。
ブロック別
展示説明文
展示説明文(英語)
資料性質 被爆関連資料

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