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被爆資料

識別コード 9104-0009
資料名 勅諭勅語他
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 河本 忠雄(コウモト タダオ)
寄贈者(英語) Tadao Komoto
受入年月日 1973/01/18
寸法(幅×高さ×奥行)(mm)
寸法(その他) 90×130他
被爆地(旧町名) 中島新町
被爆地(現町名) 中島町
爆心地からの距離(m) 700
数量 6
内容 県立広島工業学校1年生の河本梶雄さん(当時12歳)は、動員学徒として中島新町の建物疎開作業現場で被爆し、消息を絶った。父の来さん(当時46歳)と兄の忠雄さん(当時18歳)は、梶雄さんが被爆したと思われるあたりで、一人一人の遺体をひっくり返して必死に梶雄さんを捜した。3日後に梶雄さんの学生服の上着を、被爆場所から数百メートル北側の本川べりで発見したが、梶雄さんの行方は分からなかった。山県郡の自宅で梶雄さんの帰りを待っていた母・君代さん(当時36歳)は、毎日気が狂わんばかりに、息子の消息を求めていた。結局、どうしても梶雄さんの行方は分からないまま、その年の9月ごろ、学生服を遺骨代わりに自宅で葬儀が行われた。その後、被爆後多くの負傷者が運ばれた似島から、梶雄さんの遺骨と形見となった財布が送られてきた。

妹の満子さん(当時9歳)のお話から
優しく、利発で賢い兄でした。すぐ上の兄だったので、魚釣りやビー玉でよく遊びました。被爆の数日前、短い休みで帰省してきた兄と近所の川で釣りをして遊び、「今度帰るときにはお土産買ってきてね」と別れました。まさかその時には、それが最後の別れになるとは思いもしませんでした。被爆後、父と長兄が市内を捜しまわりましたが、どうしても行方は分かりませんでした。山県郡の実家で待っていた母は、近所に市内から帰った子どもがいると聞くと、兄も帰ってきてはいまいか、少しでも消息はないかと、毎日気も狂わんばかりにその家に通っていました。結局、兄は見つからず、焼け跡で見つけた兄の学生服で9月ごろお葬式をしました。背中が破れていたのを覚えています。それからしばらく経って、似島から「遺骨がある」と連絡が来ました。兄と一緒に似島へ運ばれた友人が、兄が先に亡くなった時「河本梶雄君だ」と伝えてくれたので、名前が分かったようです。
ブロック別 吉島・舟入・観音地区
展示説明文 県立広島工業学校1年生の河本梶雄さん(当時12歳)は、動員学徒として建物疎開作業中に被爆しました。兄の忠雄さんは市内を捜し回り、3日後に作業現場近くで梶雄さんの学生服の上着を見つけましたが行方は分かりませんでした。約2カ月後、似島から梶雄さんの遺骨と遺品の財布が送られてきました。
展示説明文(英語) Kajio Komoto (then, 12), a first-year student at Hiroshima Prefectural Industrial School, was a mobilized student exposed to the A-bomb at his building demolition worksite. His older brother Tadao searched for him through the city. Around the third day, he found the jacket of his student uniform near the worksite, but no sign of Kajio. About two months later, his ashes and this wallet were sent to his home from Ninoshima.
資料性質 被爆資料

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