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トップページ被爆資料高増啓蔵(雅号・径草)「原爆スケッチ画展覧会」案内チラシ

被爆資料

識別コード 9102-0063
資料名 高増啓蔵(雅号・径草)「原爆スケッチ画展覧会」案内チラシ
資料名(英語) Leaflet of the A-bombing Sketch Exhibition
寄贈者(カナ) 高増 文雄(タカマス フミオ)
寄贈者(英語) TAKAMASU Fumio
受入年月日 2014/9/9
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 256×184
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量
内容 1954(昭和29)年8月4日から8月8日に中国新聞社ホールで開催された高増啓蔵(雅号・径草)氏の原爆スケッチ画展覧会の案内チラシ。東京生まれの高増啓蔵さんは、幼いころに聴覚を失い、日本画家を志しながら、官立東京聾唖学校師範部を卒業。1925(大正14)年に、広島へ赴任しました。1945(昭和20)年4月に聾学校が疎開し、原爆が投下された時には、吉田町にいました。広島から45キロ離れた地でも閃光を感じ、山の向こうに湧き上がる原子雲をザラ紙の裏に描きました。その後広島市内に入り、被爆した街の風景をスケッチして廻りました。その姿は、9月9日、当時米海軍所属だったウェイン・ミラー氏によって写真が残っています。息子の文雄さん(当時9歳)は、通訳として啓蔵さんのスケッチに付き添っていましたが、米兵を見ると啓蔵さんは「隠れろ」と言ったそうです。ろうあの友人が関東大震災の直後に憲兵からスパイとみなされ、銃殺された経験があった啓蔵さんは、命がけでスケッチをしていたのです。1954年に開催されたこのスケッチ画展では、このときに描いた原画とこれらを元に書き直した本画が展示されました。現在、スケッチ画と本画とも、当館に収蔵されています。
ブロック別
展示説明文 「原爆スケッチ画展覧会」案内チラシ
寄贈/高増文雄氏 (高増径草さんの息子)
東京生まれの高増径草さんは、幼いころに聴覚を失いましたが、画家を志しながら、25歳のとき、県立広島聾学校へ美術教諭として赴任しました。原爆が投下された時には、広島から45キロ離れた疎開先にいましたが、閃光を感じ、山の向こうに湧き上がる原子雲をザラ紙の裏に描きました。その後市内に入った径草さんは、命がけで焼け野原をスケッチして回りました。
1954年に開催されたスケッチ画展では、このときに描いた原画と、これらを元に描き直した本画が展示されました。
展示説明文(英語) Leaflet of the A-bombing Sketch Exhibition
Donated by Fumio Takamasu (Keiso's son)
Born in Tokyo, Keiso Takamasu lost his hearing when he was a small boy. Although his ambition was to be an artist, he became an art teacher and was transferred to Hiroshima Prefectural School for the Deaf at the age of 25. When the atomic bomb exploded, he was at his evacuation site 45 kilometers from the city. However, he saw a flash of light and drew on the back of a piece of rough paper a picture of the mushroom cloud rising beyond the mountains. Several days later, Keiso entered the city center and drew many sketches in the burnt ruins at the risk of his life.
In 1954, an exhibition of his sketches was held, where the original works he had created in the burnt-out ruins and the painting drawn based on these original works were exhibited.
資料性質 戦後資料

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